明子女王
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明子女王(あきこにょおう;寛永15年(1638年) - 延宝8年7月8日(1680年8月2日))は、日本の皇族。江戸時代、後水尾天皇皇子の高松宮好仁親王王女として生まれ、後西天皇女御となる。母は北ノ庄藩主松平忠直の娘で、徳川秀忠養女の宝珠院寧子。
父王の好仁親王は明子女王の生まれた寛永15年(1638年)に、男子の無いまま薨去した。この為、後水尾天皇第六皇子の秀宮を親王宣下し良仁親王(ながひとしんのう:後西天皇)となし、高松宮を継承させた。明子女王は良仁親王の妃に内定する。慶安4年(1651年)親王の元服に伴い婚儀が行われ御息所となり、3年後の承応3年(1654年)6月に八百宮(後の誠子内親王)を生む。同年9月20日、後光明天皇が崩御、本来高貴宮(霊元天皇)が皇嗣と定められていたが、高貴宮はまだ幼少であった為、良仁親王が皇位につくこととなった。親王は同年11月に践祚し、明暦元年(1655年)1月に即位する。明子女王はその年の5月14日に長仁親王(後、八条宮を継承する。)を生む。明子は後西天皇即位後、女御宣下のないまま女御と称されていたが、明暦2年(1656年)に女御宣下される。寛文3年(1663年)正月後西天皇は霊元天皇に譲位する。
明子女王は延宝8年(1680年)7月8日病が元で、43歳で崩御し、妙吉祥院聖輔義英太夫人と諡される。墓所は京都府京都市・大徳寺龍光院。
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