明楽
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明楽(みんがく)とは、江戸期に明朝から日本に伝えられた音楽群の名称である。
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[編集] 歴史
明楽の伝来は、明国の魏之琰(ぎしえん)(1617年?-1689年)の帰化にさかのぼる。福建省福州府福清県の出であったが、明末清初の戦乱を避けて安南国、後に東京(トンキン)国へと赴き、長崎との白糸の交易の船主となって、富を築いた。正保四年(1637年)には長崎に崇福寺の建立に多大な寄進をして四大檀越すなわち魏王何林の一つに名を連ね、彼は交易に携わる傍ら、明国の宗室や廟堂の音楽に造詣が深かったが、それらの音楽を長崎で一族郎党を率い演奏していた。当時の楽器は、巣笙(そうしょう)竜笛(りゅうてき)長簫(ちょうしょう)篳篥(ひちりき)琵琶、月琴、小瑟(しょうしつ)太鼓、小鼓(しょうこ)雲鑼(うんら)壇板(だんばん)で、管四、弦三、打四の十一種によって構成され、時に座し、時に立って演奏された。声楽が主体になり、それらに合わせて舞いも踊られた。彼は願い出て上京し、延宝元年(1673年)には内裏で演奏するなど、明楽は広まりを見せた。延宝七年(1679年)には長崎奉行に許されて日本に帰化し、福建の出身地から鉅鹿(おおが)姓を名乗った。
さらに魏之琰から四代目にあたる魏皓(ぎこう)(1728年?-1774年)(魏君山。鉅鹿民部規貞)は、特に秀でた音楽の才能を持っていたが、家督を継ぐ事を好まず、上京して諸侯の前で明楽を奏し、また姫路藩主の酒井雅楽頭の扶持も受けるなどし、一時は百人もの弟子を抱えまでになり、広く明楽を貴族階級、武士階級に広めた。明和5年(1768)、魏皓は明楽の曲を工尺譜(こうせきふ)で書き表した『魏氏楽譜』を刊行した。魏皓の没後、安永9年(1780)には、弟子によって『魏氏楽器図』が刊行された。
明和年間(1764年-1772年)に最盛期を迎えた明楽は、清楽(しんがく)の流行に押されて急速にすたれ、その一部は清楽に取り入れられた。清楽と合わせて明清楽(みんしんがく)と呼ばれることも多いが、「明清楽」という呼称は、事実上清楽だけを指す場合も多いので、注意を要する。
[編集] 特徴
明楽も清楽も、中国伝来の音楽であったが、その風格はまったく違う。明楽は明朝時代の荘重な雅楽だが、清楽は清朝時代の軽妙な通俗音楽で、曲目も楽器の編成も異なる。西洋音楽でたとえれば、クラシックとポピュラーほども違う。
明楽で使う楽器は、
体鳴楽器:雲羅 檀板
膜鳴楽器:太鼓 小鼓
である。明楽で使用する弦鳴楽器は、撥弦楽器のみである。清楽と違い、胡琴(いわゆる「胡弓」)のような擦弦楽器は使用しない。
[編集] 現状
幕末から明治にかけて、明楽は絶滅寸前の状態であった。不幸中の幸い、明治年間に音楽取調掛(東京芸術大学の前身)が、鉅鹿氏の子孫から明楽の楽器や楽器図、楽譜図などの資料をまとめて購入したおかげで、明楽の資料は比較的よく残っている(現在これらの資料は東京芸術大学が所蔵)。
上述の『魏氏楽譜』には、「江陵楽」「蝶恋花」「喜遷鶯」「陽関曲」「賀聖朝」「昭君怨」「如夢令」など、二百数十曲が収録されている。唐宋の詩詞と同題名の曲も少なくない(例えば「陽関曲」の歌詞は、王維の七絶である)。今日の楽譜と違い、楽譜の肝心な部分は、弟子が肉筆で加筆するようになっている(師匠に学費を払って入門しないと、楽譜を教えてもらえない仕組みになっていた。こうしたことは、江戸時代の芸道では、よく見られた)。
明の楽譜資料は中国本土でも比較的少く、日本の『魏氏楽譜』は、中国の音楽研究者にとっても第一級の資料となっている。
現在、明楽は、東京の湯島聖堂などで、時たま再現演奏されている。
[編集] 関連項目
・清楽
・月琴
[編集] 外部リンク
・坂田古典音楽研究所 明楽・清楽の研究と復元演奏。