曹無傷
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曹 無傷(そう むしょう、生年不詳 - 紀元前207年)は劉邦に仕えた漢の左司馬。おそらく沛の人ではないかと思われる。一説では、後漢末の曹萌(曹節)・曹騰父子の遠祖とされる。
[編集] 略伝
紀元前207年の冬に、項羽に追い詰められた劉邦を見限った曹無傷は、項羽の軍師である范増に密使を送って「沛公は関中王と称して秦の子嬰を宰相として財産を独占する」という偽りの讒言をした。これを聞いた范増はこの機会に劉邦を惨殺する好機だと判断して、項羽に上奏した。このために劉邦は仕方なく、項羽の従父(叔父)の項伯の手引きで、釈明のために項羽の陣に赴いて自ら卑下して謝罪した。その時に項羽は「あなたを疑って相済まぬ。それはあなたの左司馬である曹無傷という男がわしに讒訴したのじゃ」と素直に劉邦に述べた。これを聞いた劉邦は初めて武将の曹無傷の裏切りを知り、心底では曹無傷に対して大激怒し、また憎悪したのである(鴻門の会)。やがて、劉邦は参軍(警備将校)の樊噲・夏侯嬰・靳彊・紀信らと共になんとか無事に覇上に帰陣した。そして、劉邦は直ちに自分を窮地に追い込んだ裏切者の曹無傷を処刑し、曹無傷の首級は陣門に無惨に晒されたという。一説によると、曹無傷の末裔が後漢末に活躍した曹操ではないかと言われているが、同じく劉邦の配下である曹参との説もあるため、定かではない。