范増
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范 増(はん ぞう 紀元前279年? - 紀元前204年)は、秦末期の楚の項梁と項羽の軍師である。項羽からは亜父(あふ(または「あほ」)、父に亜ぐの意)と呼ばれ敬愛された。
居巣(現安徽省巣湖市居巣区)の人。項梁たちが挙兵したときに既に70才、誰にも仕えずに暮らしていた。陳勝・呉広の乱で項梁が挙兵すると、彼の元を訪れ「かつての楚の懐王の子孫を楚王として建てるべきだ」と進言した。項梁はこれを採用して心を探し出し、祖父と同じ懐王を名乗らせた(後の義帝)。
その後は項梁の傍に居たと思われるが、『史記』の記述では懐王を建てた後、鴻門の会まで范増は登場しない。
項梁が秦の章邯軍によって戦死した後、項羽は(宋義の指揮下に入って)秦に攻められている趙の救援に向かい、劉邦は別働隊を率いて関中入りを目指した。この時、懐王より「最初に関中に入った者を関中王とする」との約束が交わされた。
項羽は途中で宋義を斬って軍の指揮権を掌握し、章邯軍を打ち破った。
しかし、その間に咸陽一番乗りは劉邦に奪われてしまった。劉邦が咸陽で略奪などを行わなかったことを、范増は「大望有るゆえ」と察知、劉邦を殺すよう項羽に進言した。
項羽も最初は激怒して劉邦を殺そうとしていたが、項伯のとりなしにより、劉邦と面談することにした。それが「鴻門の会」である。この会の途中で、范増は幾度も項羽らに対し劉邦暗殺を行うように指示するものの、張良や項伯や樊噲などが邪魔をし、結局は暗殺出来なかった。会の後で、范増は劉邦を暗殺できなったことを悔しがり「豎子、ともに謀るに足らず!」(小僧とは一緒に謀を行うことが出来ない!)と叫び、劉邦から贈られた器を叩きつけて壊した(豎子とは項羽を指す)。
その後、項羽が秦を滅亡させて各諸将を封建する際に、「劉邦は危険だ」と主張して辺境の地(漢中)へ左遷させ、また劉邦が攻め入ってきても大丈夫なように、秦の故地である関中には章邯ら旧秦の将軍たちを配置した。
だが、劉邦が韓信を得て章邯らを滅ぼし、楚漢戦争が激化。范増も軍師として項羽を支持するものの、項羽は滎陽の包囲戦(滎陽の戦い)の時に陳平の離間の計にかかり、范増たちを疑うようになる。これに怒った范増は「天下の形勢はおおむね定まりました。後は君王(項羽)自ら行ってください。」と言って引退を項羽に宣言、帰郷する途中で背中に膿が溜まる病気にかかり死亡した。紀元前204年のことである。
范増を失った後の項羽は、戦争に勝っても勝っても劉邦を追い詰めることが出来ず滅亡する。劉邦は楚漢戦争後に、「項羽は范増ひとりすら上手く使いこなせなかった。これが項羽の滅亡した原因である」と語った。
ちなみに、范増の故郷では、范増の無念の死を弔うために毎年祭事を続けていたと伝えている。
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