曹豹
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曹豹(そうひょう、151年-196年?)は、後漢末期の武将。字は不詳。一説では曹参の末裔といわれる。また、一説では丹陽郡の人という。また、陶謙の寵臣だった曹宏のいとことされる。
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[編集] 経歴
陶謙の重臣で、下邳県の相の地位にあった。曹操が陶謙を攻めて来た時、将軍として曹操軍と戦ったが、敗退している。陶謙の死後、劉備の家臣となる。
劉備が袁術討伐のために徐州を留守にすると、呂布に寝返った。『三国志』の注に引く『英雄記』には二説を載せている。一つは呂布伝の注で、下邳の留守番をしていた張飛と曹豹が喧嘩して、曹豹は張飛に殺された。そのため城中は混乱していると許耽が呂布に内通を願い出た。そこで呂布は進撃し、張飛を破って下邳を奪ったというもの。もう一つは先主(劉備)伝の注で、張飛が曹豹を殺そうとしたため、曹豹の軍勢は陣営を固めて守備しつつ、人をやって呂布を招き寄せた。そこで呂布は進撃し、張飛を破って下邳を奪ったというもの。『三国志』本文及び先主伝の注に従えば曹豹は生きており、呂布伝の注に従えば曹豹は殺されたことになる。どちらが正しいかは、はっきりしない。しかし、その後の消息は記録されていない。
[編集] 三国志演義
娘は呂布の第二夫人。劉備の義弟・張飛と仲が悪く、常に対立していた。劉備が袁術討伐のために徐州を留守にすると、張飛と共に留守居役を務めたが、張飛の飲酒を諫めたためむち打たれた。このままでは張飛に殺されてしまうことを恐れて、当時劉備を頼っていた呂布に応援を頼んだ。こうして呂布は劉備から徐州を奪ったのであるが、曹豹は呂布の応援が来る直前に張飛によって殺されてしまった。
[編集] 曹豹血盟軍
演義では酒癖が悪い張飛の失敗談のおまけで殺されてしまうという、冴えない役どころであった曹豹であるが、後年その冴えなさが逆に脚光を浴びる事になる。
光栄(現コーエー)が出版していた雑誌、『光栄ゲームパラダイス』が曹豹擁護の投稿を掲載した事が発端となり、同雑誌の投稿欄で曹豹に関する投稿が殺到。毎回「曹豹血盟軍」と題した特集が組まれるなど人気を集めるようになった。この人気は同雑誌が『光栄歴史パラダイス』、『Da・Ga・Ma』と誌名を代えて以降数年間続き、また『ログイン』など投稿者層が被る雑誌でも曹豹を応援する投稿が集まった。後に『Da・Ga・Ma』の休刊、『ログイン』の誌面改編によってこうした投稿を受け入れる雑誌が無くなった後は、インターネットに活動の場を移し、今に至っている。
この曹豹人気の理由として以下のことがあげられる。
- 史実で、特に『演義』などの先行する小説での扱いがぱっとしなかった
- ゲームでの能力値のあまりの低さ(コーエーの「三國志シリーズ」ではI・II・IVにおいて登場武将中能力値合計が最低。特に「II」で全能力が10台だったことは伝説にまでなった)
- ゲーム上のグラフィックが貧相(「三國志II」では江戸時代の町人のような顔をしている)
こうした事から一種の判官贔屓的な物、ネタとして楽しむ要素が背景にあったと見られる。同様な理由で人気を集めた歴史上の人物として厳白虎や兀突骨、松本図書助、二階堂盛義などが存在する。曹豹の能力は三国志の新作のたびに上がっていったが、その腑抜けたなんともいえない顔グラで、名前が変わり影が薄くなった松本や許貢らの登場で一時的に割愛されたこともある厳白虎らと違い、未だに多くの人に愛されている。