陶謙
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陶謙(とうけん、132年 - 194年)は、中国、後漢末の武将、政治家。字は恭祖。丹陽郡出身。子は陶商・陶応ら。
[編集] 略要
[編集] 生涯
大学の学生となり、州郡に出仕。やがて茂才に推挙されると、県令、幽州刺史となる。184年、黄巾の乱が起こると徐州刺史となり、黄巾軍を敗走させた。185年、中央に召しだされると、車騎将軍・張温の下につけられ、韓遂・辺章らを討伐のため涼州に遠征。この時、上官の張温を侮辱し、激怒させている。(ただし、張温の人物については、その指揮ぶり、優柔不断さについて、同僚の董卓・孫堅ともに少なからず不満を抱いている)190年の董卓の乱後は徐州、揚州を支配し割拠した。
193年、曹操の父・曹嵩とその一族が陶謙領内を通行した時、部将の張闓を護衛につける。しかし、護衛としてつけたはずの彼らが、曹氏の財産に目が眩んで曹嵩らを殺害、財産を持ち逃げしてしまう。このため、曹操から責任を問われて攻め込まれる。陶謙は曹操に敗戦、徐州の人民の多くが無差別に殺害されたという。 (この時の曹嵩殺害は、陶謙自身が行なったという説もある。また同時期、自ら天子と名乗った闕宣という宗教指導者と結託し、曹操の領内、曹嵩の殺害現場となった泰山周辺を襲撃させてもいる)
しかし、この戦争の最中に、曹操が親友とたのんだ張邈・張超兄弟と、当時その客将として陳留に逗留していた呂布・陳宮らが謀反を起こしたため、曹操は軍を撤退させた。この結果、陶謙は九死に一生を得ている。
そして194年、陶謙は病に陥り、自らの息子がそろって不出来であるという理由から劉備に徐州を譲り、間もなく死去した。齢63だった。
[編集] 人物登用
陶謙が取り立てた人物には王朗、朱治、陳登と三国時代など活躍した人物が多数居た。反面、笮融、曹宏、闕宣などの奸物と結託したり、忠義に厚い趙昱を起用せず、張昭や呂範など、自分の招きに応じなかった人物たちを全て捕らえて幽閉するなど、人物の起用やその処遇を誤る事があった。 また、孫堅の長男の孫策の才能を妬んで忌み嫌っていたともいう。