本多副元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本多副元(ほんだ すけもと、弘化2年 (1845)~明治43年 (1910))は、江戸後期の越前府中城の城主。 本多富正から数えて9代目の越前府中藩の領主。 生まれは常陸国で、18歳の時(翌文久三(1863)年)に本多家に養子に入った。 八代目当主の本多富恭(とみやす)に嗣子が無いため、常陸国府中藩主 松平頼説(よりひさ)の子、頼功(よりゆき)の 次男に生まれた副元が養子となる。 府中藩の本多家は本多富正の代より福井藩家老を務める家柄で、副元も幕末の越前福井藩の筆頭家老であった。 藩主の名代で、京都守護職、水戸浪士討伐、長州征伐、会津征伐など、大いに活躍した。
明治維新後の華族制度により江戸幕府下の大名は華族となるが 本多家は越前福井藩の陪臣として大名格扱いを受けたにも関わらず士族に列せられた。 これを不服とした家臣、町人が明治3年に武生騒動を起こした。 この結果、明治12年に改めて華族に加えられ、明治17年に男爵となる。
地元の教育振興に熱心で、明治6年(1873)に旧本多館跡(現在の市役所の地)と金500円を寄付。 3階建の校舎を持つ進脩小学校が完成し、それ以前にあった小学校を移した。