松平康哉
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生誕 | 宝暦2年4月19日(1752年6月1日) | |||
死没 | 寛政6年8月19日(1794年9月12日) | |||
別名 | 仙千代、光丸(幼名)康致(初名) | |||
官位 | 従四位下、越後守、侍従 | |||
父母 | 父:松平長孝 母:藤堂高治の娘 | |||
妻 | 正室:井伊直幸の娘
側室:柴田氏、福田氏、藤井氏、井岡氏、池田氏 他多数 |
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子 | 康乂、斉孝、維賢、信行、娘(松平知豊室) |
松平 康哉(まつだいら やすちか)は、美作津山藩の第5代藩主。
宝暦2年(1752年)4月19日生まれ。宝暦12年(1762年)、父の死去により後を継ぐ。父は庄屋制度を廃して新法による藩政改革を行なうことで藩財政などの再建を目指したが、あまり効果がなかったうえ、その父も若死にしたため失敗に終わっていた。そのため、後を継いだ康哉は新法改革を廃して旧法による藩政改革を目指した。まず、同時代の名君と言われた上杉鷹山や細川重賢らにならって大村庄助や飯室武中ら家柄にとらわれない有能な人材を登用し、さらに孝行者に対して褒賞を惜しまず出し、育児法を制定したりするなどして社会福祉的な政策を中心とした藩政改革を断行し、成功を収めたのである。しかし天明3年(1783年)5月には天明の大飢饉による米価高騰により、領内で打ちこわしも起こった。
寛政6年(1794年)8月19日、43歳で死去し、後を次男の松平康乂が継いだ。法号:顕徳。墓所:東京都港区芝の天徳寺。
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