上杉鷹山
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上杉 鷹山(うえすぎ ようざん、宝暦元年7月20日(1751年9月9日) - 文政5年3月11日(1822年4月2日))は江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩の第9代藩主。官位は従四位下侍従、官名は弾正大弼のちに越前守。
領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は治憲(はるのり)だが、藩主引退後の号である「鷹山」の方が著名。
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[編集] 経歴
日向国高鍋藩主・秋月種美の次男として、高鍋藩江戸屋敷で生まれる。母は黒田長貞の娘。母方の祖母が米沢藩第4代藩主綱憲(吉良義央と富子(第2代藩主定勝の娘)の長男)の娘であった。このことが縁で、10歳で第8代藩主重定の養子となる。すなわち、上杉鷹山自身は、実際の血筋で言えば米沢藩初代藩主景勝の昆孫にあたる。正室は重定の娘。子は上杉顕孝(長男)。ほかに側室のお豊の方との間に寛之助(次男・早世)がある。
米沢藩後嗣となってから尾張出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服。江戸幕府10代将軍徳川家治の一字を賜り「治憲」と改名する。1768年(明和4年)に米沢藩を継ぐ。
上杉家は18世紀中旬には借財が20万両に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら、かつての会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことはなく、このため他藩とは比較にならない程人口に占める家臣の割合が高かった。名家への誇りを重んずるゆえ豪奢な生活を改められなかった前藩主重定は、藩土返上のうえ領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。
新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努めた。また、祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平州によって再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政が建て直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。
1785年(天明5年)に家督を前藩主・重定の実子である上杉治広(鷹山が養子となった後に生まれた)に譲り隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。1802年(享和2年)52歳の時、剃髪し「鷹山」と号する。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。1822年に死去、享年72。法名:元徳院殿聖翁文心大居士 墓所:米沢市御廟の上杉家廟所。上杉神社摂社である松岬神社に、祭神として祀られている。
[編集] 官職位階履歴
[編集] 伝国の辞
伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得である。
内容は下記の通り。
- 一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
- 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
- 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
- 右三条御遺念有るまじく候事
伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。
[編集] 人物について
正室である前藩主の長女幸姫は脳障害、発育障害があったといわれている。彼女は短い生涯であったが、2人は仲睦まじく暮らした。しかし後継者が絶えることを恐れた重役達の勧めで治憲より10才年上の側室お豊の方を迎えた。
有名な「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた。
「してみせて 言って聞かせて させてみる」の言葉を残しており、山本五十六に影響を与えたとされる。
また、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げている。また、2007年に讀賣新聞が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも理想のリーダーとして上杉鷹山が1位に挙げられている。
[編集] 改革について
鷹山存命中の藩政改革は、竹俣当綱をリーダとして、産業振興に重きを置いた前期の改革と前期の改革後の隠居から復帰した莅戸善政をリーダとして、財政支出半減と産業振興をはかった「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される。
鷹山が藩主だった前期改革を鷹山の功績として讃えるケースが多いが、前期改革は頓挫して隠居、米沢藩の再建が実現したのは、鷹山隠居後実施された「寛三の改革」によるものであり、幕府から美政を讃えられるほどの健全財政が実現したのは、鷹山の死の翌年である。
[編集] 参考文献
- 横山昭男 編『上杉鷹山のすべて』(新人物往来社、1989年) ISBN 4404015968
- 安彦孝次郎 『上杉鷹山の人間と生涯』(サイエンティスト社、1994年三訂版) ISBN 4914903148
- 加来耕三『異端の変革者 上杉鷹山』(集英社、2001年) ISBN 4087812359
[編集] 上杉鷹山を題材とした作品
- 童門冬二『小説 上杉鷹山』(学陽書房、1983年) ISBN 9784313850309
- 童門冬二『上杉鷹山の経営学』(PHP文庫、1990年)ISBN 4569562736
- 藤沢周平『漆の実のみのる国』(文春文庫、2000年)
- 嶋津義忠『上杉鷹山 財政危機を打開した名君の生涯』(PHP文庫、2002年) ISBN 4569576753
[編集] ドラマ
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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