松平親氏
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松平 親氏(まつだいら ちかうじ、永仁6年(1298年)? - 正平16年/康安元年(1361年)?、生没年は異説もある)は、室町時代初期、14世紀後半頃の三河国の武将で、江戸時代に作成された系譜において松平氏・徳川氏の始祖とされている人物である。
[編集] 出自と人物
系譜によると、親氏は清和源氏の新田氏の支族で、南北朝時代の争乱で南朝方について没落した世良田氏の一族の世良田有親(得川有親)の子とされている。有親は関東で鎌倉公方の軍勢に敗れ、親氏は追捕を避けるために相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家し、徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。徳阿弥は諸国を流浪して、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、同地の領主である松平信重(松平太郎左衛門在原信重)の客人となった。松平信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、徳阿弥は還俗して松平太郎左衛門在原親氏(まつだいら・たろうざえもん・ありはら・の・ちかうじ)と名乗ったという。
松平郷領主となった親氏は、松平城(郷敷城)を築き、弟あるいは子とされる泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して戦国大名松平氏の基礎を築いた。
親氏は武芸に通じ、教養があり、信仰と慈悲の心が深かったという。領内に菩提寺となる高月院を初めとして多くの寺社仏閣を建立し、貧しい領民には援助を惜しまなかった。
[編集] 批判
しかし、上述したような親氏の出自と事歴については後世の徳川氏・松平氏の主張によるものに過ぎず、証拠となる史料は無く、伝説の域を出るものではない。松平氏創業の二代、親氏と泰親は同時代の史料にその名を見出すことができず、実在を疑う説もある。また、時宗の放浪僧ではなく、関東から流れてきた浪人で、松平太郎左衛門信重の家を横領したという説、諸国を放浪する中世の職人とよばれる身分だったとする説もある。
[編集] 末裔・墓所
また、のちに松平氏の重臣となる酒井氏の系譜によると、同氏の始祖酒井広親は、親氏が松平氏を継ぐ以前に三河国碧海郡酒井村の領主の婿となって生んだ子であるという。この説に従えば酒井氏は松平氏の同族ということになる。
親氏の墓は愛知県豊田市松平町の高月院にある。没年に定説はないが、地元松平町では明徳4年(1393年)と伝承されており、1993年に豊田市は親氏の没後600年を記念して「親氏公600年祭」を行った。
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