松浦氏
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[編集] 渡辺党
諸般の松浦家系図によると嵯峨源氏渡辺氏の祖の源綱(渡辺綱)の孫の源久(渡辺久、松浦久)を祖とするとされるが、系譜については諸説ある。
松浦氏は、渡辺綱にはじまる渡辺氏を棟梁とする摂津国の滝口武者の一族にして水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派とされる。
[編集] 松浦久(渡辺源次)
祖の松浦久(渡辺久、源久)は、渡辺綱(源綱)の子の奈古屋授(渡辺授、源授)の子とされ、松浦郡宇野御厨の荘官(検校)となり定住し、松浦、彼杵郡及び壱岐の田およそ2,230町を領有して梶谷に住み、松浦久と名のる。次いで検非違使に補され、従五位に叙された。松浦久は、源太夫判官と称して松浦郡、彼杵郡の一部及び壱岐郡を治め、ここに肥前松浦党の歴史が始まる。
[編集] 松浦氏族
松浦久の子は、松浦正、松浦安、松浦直、波多持、石志勝、荒久田聞、神田広、佐志調。
嫡子は松浦直で、直の子は、松浦清、有田栄、大河野遊、峯披、山代囲、値賀連。
松浦氏の系譜については約30種類ほどの、それぞれに内容が異なる系図があり、松浦氏全体の立場からの正確な系譜を知ることは不可能に近く、一族や子孫の個々が、相互に異なるにせよ各自の系譜の確認をすることしか出来ないと言っても過言ではない。
[編集] 東国御家人との確執
平安時代は松浦党が盤踞した地域は平家の知行国であるため、松浦氏は平家の家人となっていたが、源平合戦では壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に与し、その功から鎌倉幕府の鎮西御家人となり地頭となるが、源頼朝は、平家家人の九州の豪族への信頼は薄く、九州の抑えとして少弐氏、島津氏、大友氏を守護として九州に送り、松浦氏は、同じ環境の秋月氏、蒲池氏などと同じく、これらの新参の東国御家人の「下り衆」の傘下に置かれる。
元寇の際は、松浦党の惣領だった佐志氏の佐志房や、山代氏の山代階などが奮戦する。
[編集] 松浦氏の一族
[編集] 戦国大名の松浦氏
松浦氏の傍流の松浦隆信は戦国大名となり松浦半島を統一し、豊臣秀吉に従う。江戸時代には平戸を城下町として平戸松浦氏の平戸藩10万石を構え、改易されることもなく、明治維新まで続いた。