林子平
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林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人。名は友直。のちに六無齋主人と号した。
姉が仙台藩主の側室に上がった縁で兄とともに仙台藩の禄を受ける。 仙台藩で教育や経済政策を進言するも聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄の部屋住みとなり、全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随(げんすい)、桂川甫周(ほしゅう)、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威(きょうい)を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著す。また『富国策』では藩の家老、佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。
『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書であったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は、16巻・3分冊もの大著を、自ら版木を彫っての自費出版にて世に問う決意をする。しかし完成した海国兵談は、老中松平定信の寛政の改革がはじまると政治への口出しを嫌う幕府に危険人物として目を付けられ『三国通覧図説』も幕府から睨(にら)まれ、双方共に発禁処分を下される事になったばかりか、海国兵談に至っては版木没収の処分を受けることになる。しかしその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして、後につたえられた。
最終的に、仙台の兄の下へと強制的に帰郷させられた上に禁固刑(蟄居・ちっきょ)に処され、そのまま死去する。蟄居(ちっきょ)中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。
『三国通覧図説』はその後、長崎よりオランダ、ドイツへと渡り、ロシアでヨーロッパ各国語版に翻訳(ほんやく)され、ペリー提督との小笠原諸島領有における日米交渉において同地の日本国領有権保持を示す確たる証拠として効力を発揮した。しかし、現在では竹島や尖閣諸島の領有権において、韓国や中国から自国の領土である証拠として取り上げられている(実際にはこの図説に表記されている「竹島」は「鬱陵島」を示しているとされる)。
林子平の墓は仙台市青葉区にある龍雲院にあるが、その龍雲院のある地名は1967年住居表示の際にそれまでの半子町から、墓があることに因み子平町と改称されている。