正木直彦
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正木 直彦(まさきなおひこ 文久2年1862年 - 昭和15年1940年)は明治・大正・昭和にわたって東京美術学校(東京藝術大学)の4代目の校長を務めた人物。号は「十三松堂」。
小学校教員、中学校長(奈良県の旧制郡山中学校初代校長)、東京帝国大学、文部省を経て、1901年に東京美術学校校長となる。以後、1932年まで長期にわたり校長を務めた。文部官僚出身であるが、一時期工芸史の講義も行った。茶人でもあり、田中仙樵などと交流があった。
特に学校内部の各派の調停につとめ、体制の基盤を築いた人物として評価されている。正木が長年校長を務めた点については、作家揃いの美術学校を統制していくのは中々難しいことであり、正木以外に適任が見当たらなかったようだ、ともいわれている。
1932年、文部省の行政整理が行われるのを機会に校長を辞任した。後任を官僚が務めることには校内の反発が強く、(文部省専門学務局長赤間義信が2か月ほど校長事務取扱を務めたあと)西洋画科教授の和田英作が校長に就任した。
その後1935年、美術学校敷地内に正木記念館が建てられた。1940年死去。墓所は護国寺にある。
[編集] 美校改革運動
正木在任中の1915年1月、美術学校では学生の長髪禁止など風紀取締りを強化したが、これに対する反発をきっかけに翌年にかけて美術学校改革運動が起こった。美術学校の運営体制に関する批判や正木への個人攻撃が新聞・雑誌に掲載されたほか、国民美術協会が美術学校改革案を文部省に提出した(これらは先に美術学校を退職に追い込まれた美術評論家岩村透の扇動によるところが大きかった)。改革運動はその後も尾を引いたが、正木は校長職に留まった。
[編集] 文献
- 回顧七十年
- 十三松堂日記