岩村透
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩村 透(いわむら とおる、1870年 - 1917年)は明治後期から大正期にかけて活躍した美術評論家、東京美術学校教授。
東京小石川区生まれ。岩村家は土佐藩家老(宿毛領主)伊賀家の家臣で、父・岩村高俊は後に佐賀県令、愛媛県令、福岡県知事、貴族院議員などを務めた(男爵)。透は慶応義塾幼稚舎、同人社(中村正直の塾)、東京英和学校(後の青山学院)と進むが中途退学。1888年にアメリカに渡り、ニューヨークで絵画を学んだ。1891年にロンドン、パリと移り、1892年にイタリア各地の美術を見て回った後、帰国(パリ滞在中に黒田清輝らと交友を持った)。
1893年、母校・東京英和学校の英語教師となった。1894年、明治美術学校で西洋美術史を講義。1896年黒田清輝が創立した白馬会に参加した。
1899年、東京美術学校の講師となり西洋美術史を担当(森鴎外の後任)、1903年教授に就任。この間、1900年のパリ万博を見学、また「巴里の美術学生」を新聞連載し(1901年)、好評を博した。1904年のセントルイス万博では美術部審査官を務め、アメリカからヨーロッパ諸国を訪問。1906年に父が亡くなると男爵位を襲爵した。
1913年には国民美術協会(初代会頭は黒田清輝)の設立に尽力した。1914年、美術学校を休職し、私費でヨーロッパに4回目の外遊、ロダンと会見した。帰国後、美術学校への復職が認められず。まもなく「美術学校改革運動」が起こると、正木直彦校長を激しく批判した。政治家になることを考えたが、持病の糖尿病が悪化して療養生活に入り、1917年に逝去した。
毒舌でも有名だったが、豊富な海外体験からヨーロッパの美術事情に詳しく、その講義は学生に人気があった。『美術新報』などの美術雑誌に健筆をふるい、明治後半から大正期の美術界をリードした。文学史上有名な龍土会も、元は岩村が主宰していた美術家の集まり(パリのサロンを範としたもの)に柳田國男、国木田独歩ら文学者らが合流したものだという。
カテゴリ: 美術評論家 | 美術史家 | 人物関連のスタブ項目