日本美術史
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日本美術史(にほんびじゅつし)とは、日本の美術の流れ、様式の変遷、各時代の代表的な作品や作家の研究、相互の影響関係、作品や作家を生んだ時代背景(政治、経済、信仰、風俗、社会、文学などとの関連)などについて述べたもの、またはそうした分野を研究する学問のこと。
本項では日本美術史の概観を述べるにとどめ、各時代の美術についてはそれぞれ別項目を設けて詳説する(予定)。
目次 |
[編集] 概論
[編集] 「日本美術史」の始まり
「美術」という日本語の単語は西洋語からの翻訳語であり、1873年(明治6年)、当時の日本政府がウィーン万国博覧会へ参加するに当たり、出品する品物の区分名称として、ドイツ語のKunstgewerbeの訳語として「美術」を採用したのが初出と言われている。もっとも、この当時の「美術」には詩や音楽なども含まれ、現代日本語の「芸術」に近い語義であった。「美術」という単語自体が明治時代案出の訳語であり、西洋の概念を日本に当てはめたものであった以上、「日本美術」あるいは「日本美術史」という概念もそれ以前の時代には存在しなかった。「美術館」「美術家」「美術史」などの語も当然明治時代以降に使用されるようになったものである。「美術館」という名称は1877年(明治10年)に東京・上野で開催された第1回内国勧業博覧会の陳列館の名称として使用されたのが初出である。1889年(明治22年)に開校した東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)では「美学及び美術史」が開講され、この頃から「美術史」の語は現代と同様の意味で使用されている。1900年(明治33年)には日本初の美術史本と目される『稿本日本帝国美術略史』が刊行された。
[編集] 日本美術史の扱う範囲
日本列島の地域で制作・享受された美術をその範囲とすると考えるのが一般的である。おもに北海道に住み、特有の文化をもつアイヌの人々の美術や、現代の沖縄県にあたる琉球の美術については、いわゆる日本美術史とは別の文脈で論じられることがある。もっとも、20世紀以降の美術については、作者がもっぱら海外で制作していたり、国境を越えて幅広く活動していることが多く、上記の考え方は必ずしも妥当しない。
次に、ジャンルの面でどこまでを「美術史」で扱うかという点であるが、日本美術においては、絵画、彫刻と並んで工芸品の占める位置が非常に大きく、金工、漆工、染織、陶磁などの分野を抜きにして美術史を語ることは妥当でない。刀剣・武具も日本美術の伝統を考えるうえで軽視できない存在であり、「武士の魂」と称され神聖視されている刀剣はその外装や小道具のみならず、刀身自体が美的鑑賞の対象となっている。中国の場合と同様、「書」も重要なジャンルであり、「詩書画三絶」という言葉が示すように、水墨画などでは1つの作品に詩、書、絵画が表わされ、これらは不可分のものとして鑑賞された。このほか、「日本美術史」という場合には、建築や庭園についても併せて論じるのが一般的である。
なお、近代以降については、写真、グラフィックアートなど、現代(第二次世界大戦以降)においては(日本に限った現象ではないが)、パフォーマンス、ハプニング、ビデオアート、ランドアート、コンセプチュアル・アートなど、さまざまな表現形態が「美術」の文脈で語られ、「美術」とそうでないものとの差異は次第にあいまいになってきている。
[編集] 日本美術の位置付けと特色
日本の美術は、古代以来、中国・朝鮮半島からの影響が大きいが、日本独自の展開も見られる。近世初期に宣教師らが日本を訪れ、一部に西洋美術が知られるようになったが、その影響は局所的であった。ただし、江戸時代の美術にオランダ絵画の影響を指摘する研究者もいる。明治時代になると、西洋化=近代化が国家目標になり、美術分野でもお雇い外国人による指導が行われ、芸術の本場と考えられたフランスへ留学する者もいた。洋画の技法が習得される一方、伝統への志向が生れ「日本画」が誕生した。一方、海外において日本美術の装飾性が注目され、ジャポニズムがブームとなり、印象派やアール・ヌーボーへの刺激を与えた。
日本美術は、広い視野で見れば、アジア美術の一環であり、インド、中国を含む仏教圏の美術と見なすこともできる。日本の美術は、縄文時代を例外として、常に外国(近世以前はおもに中国、近代以降はおもに西洋)の影響を強く受けつつ、独自の様式を発達させてきた。日本美術の流れを理解するには、常に中国や朝鮮半島の美術史と対比して考えねばならず、日本の美術が日本人のみの手によって自律的に発達したものと考えることは誤りだが、日本美術を中国美術の亜流と見なすことも同様に誤りといえよう。
欧米の大美術館の多くに日本美術ギャラリーがあり、「日本美術」は独自の様式をもった美術として認識されていることがわかる。ただし、ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンの大英博物館の日本ギャラリーは、中国美術やエジプト美術のギャラリーに比べて規模も小さく、開設時期も比較的新しいということは事実である。
以下、主に絵画・彫刻・工芸・建築の各分野について記述する。
[編集] 先史時代
[編集] 縄文時代
日本列島にも旧石器文化が存在したことは、岩宿遺跡(群馬県)をはじめ、各地での発掘調査の結果から明らかとなっているが、日本の旧石器文化の遺物には造形芸術と呼ぶべきものはほとんど存在しない。現代人の考える「美術」に該当する遺物が出現するのは新石器文化に相当する縄文時代からである。縄文時代は日本列島の美術が外部からの影響や情報にさらされず、独自の発展をとげた唯一の時代である。この時代、人々はおもに狩猟、漁労、採集によって生活していたが、三内丸山遺跡(青森県)などの発掘調査結果によると、この時代すでに栽培が行われ、人々は豊かな食生活をしていたことが明らかになり、時代観も変わりつつある。縄文時代は出土する土器の様式編年から草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に区分されている。草創期の土器は、放射線炭素による年代測定で紀元前11,000年頃にさかのぼるとされている。これは世界規模で見ても最古の土器ということになるが、そこまで年代を上げることが妥当がどうかについては、疑問も出されている。
木製品、繊維などの有機物は土中で遺存しにくいため、この時代の出土遺物は土製品、石製品、骨角製品が中心となる。このうち、時代の変遷をもっともよく示す遺物が土器である。土器は時代や地域によって様式にかなりの相違があり、多くの形式に区分されているが、全般的な特色として言えることは、いわゆる縄文(縄紋とも書く)をはじめとした各種文様で器面を加飾し、全体に装飾過剰の気味があることである。縄文は、棒に撚り紐をさまざまな形に巻き付けた施文具を焼成前の器面に押し当て、ころがすことによって生ずるもので、紐の巻き付け方によってさまざまな文様が生まれる。このほか、竹管、貝殻などを施文具とした文様、粘土紐の貼り付け、刻線などさまざまな手段を用いて器面装飾が施されている。草創期の土器は、豆粒文、爪型文などと称される素朴な装飾を施したものが多い。中期は縄文時代特有の造形がピークに達する時期で、土器、土偶ともに装飾過多とも思えるほどのダイナミックな造形が見られる。中部地方の勝坂式土器、新潟県で出土する馬高式土器などがその代表的なものである。特に後者はいわゆる火焔式土器と称されるもので、口縁部には鶏冠ないし王冠を思わせる複雑な形状の装飾を付し、器面にも粘土紐の貼り付けで複雑な文様を表わしている。後期から晩期にかけては、施した縄文の一部を磨り消して平滑にし、「地」と「文様」の区別を鮮明にした「磨消縄文」が現われる。器形や装飾も中期の呪術的で装飾過剰なものから次第に洗練されたものになり、製作者の美意識の変化がうかがわれる。晩期の土器は用途に応じて器種・器形も変化に富み、現代の急須と同形の土器などもある。
土偶もこの時期に特有の遺物である。ハート形土偶、ミミズク形土偶、遮光器形土偶などと通称されるさまざまな形態のものがあるが、現実の人体の比例とは全く異った姿に表わされ、かろうじて人物像と認識できる段階までデフォルメされたものが多く、独特の造形感覚で作られている。さまざまな呪術的意図をもって製作されたものと思われるが、妊娠した女性を表現した土偶などは豊穣祈願の意図をもって作られたものであろう。
[編集] 弥生時代
初期農耕文化の時代であり、おおよそ紀元前3世紀から紀元後3世紀頃までの期間を指す。ただし、北九州から出土する最初期の土器を炭素14による年代測定法で調査したところ、紀元前8~9世紀という値が出たとの報告もあり、弥生時代の始期を5世紀ほどさかのぼらせるべきだとの主張もある。前代との大きな相違は、日本列島の文化が外来の文化や技術の影響を受けるようになったことであり、稲作農耕と金属器が中国大陸からもたらされ、文化は新たな時代に入った。文明の進化に伴い、支配者と被支配者が分化したのもこの時期である。日本列島はいまだ先史時代であり、この時代の歴史は同時代の中国の史書によって間接的に知るほかない。この時代の土器は、前時代のものに比して器形も洗練され、装飾も控えめな弥生式土器となる。1万年以上続いた縄文時代に比して、弥生時代は期間的には数百年にすぎないが、出土品の形式編年から前期・中期・後期に分けられている。
この時代の土器は1874年(明治17年)に帝国大学(現・東京大学)の隣地の向ヶ岡弥生町(現・東京都文京区弥生)から出土した壷形土器が学史的には最初の出土例とされている。出土地名をとって「弥生式土器」の名称が定着し、それが時代名ともなった。弥生式土器は地理的に中国大陸や朝鮮半島に近い北部九州で最初に出現したもので、他の地方でも縄文式土器に代わって製作されるようになり、北海道を除く日本全国に分布している。縄文式土器に見られた過剰な装飾は影をひそめ、弥生式土器は器形、文様ともに温和で洗練されたものが多く見られるようになった。土器の中には口縁部に人面を表わしたものもあるが、一般にこの時代には具象的な人物表現はまれで、前代に盛んに作られた土偶もこの時代にはほとんど姿を消している。土器以外の出土品としては青銅器、鉄器などの金属器、石製品、骨角製品、貝製品などがある。青銅器には銅剣、銅鉾、銅戈(どうか)、銅鐸、銅鏡などがある。このうち、時代を象徴する代表的遺物と目されるのは銅鐸であろう。銅鐸は後世の釣鐘を扁平に圧しつぶしたような器形で、その祖形は朝鮮半島にあったと推定されるが、日本で独自に発達をとげた銅器である。内部に舌(ぜつ)をもつ個体があることから、その原型は打ち鳴らす楽器であったと思われるが、次第に形式化し、祭器となったものと思われる。基本的形状はどの個体も同様だが、大きさや表面の装飾にはバラエティがあり、表面に素朴な絵画表現の見られるものもある。製作当初は金色に輝き、所有者の富と威厳を誇示する役割があったものと想像される。銅剣等も武器としての本来の用途から離れ、祭器化したものと思われる。
[編集] 古墳時代
おおよそ3世紀後半から6世紀半ば頃までの期間を指す。多数の小国家に分かれていた日本には、この頃から強大な権力をもった王権が成立する。この時代を代表する遺物は、時代の名称にもなっている古墳、そのなかでも前方後円墳である。すでに弥生時代から西日本を中心に墳丘墓が営まれていたが、3世紀後半頃から大和盆地を中心に前方後円墳と称される日本独特の形式の大規模な墳墓が営まれるようになった。奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳は最初期の古墳と言われている。こうした大規模な土木工事が可能になったということは、技術の発達とともに、多くの労働力を使えるだけの権力をもち、広範囲に支配を広げた王権の成立を意味する。5世紀には大阪平野を中心にさらに大規模な前方後円墳が営まれた。大阪府堺市の大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)はその典型的な例である。古墳は7世紀に入っても築造され、地方によっては8世紀まで造られているが、仏教公伝の年とされる538年頃を境に、それ以後を飛鳥時代、以前を古墳時代と呼んでいる。
この時代の出土品には馬具、刀装具などの精巧な金属製品があり、その他土器・土製品、石製品、玉類、刀剣などが多く出土する。そのなかで、この時代を特徴づける出土品は埴輪であろう。埴輪は古墳の墳丘の周囲に立てられた素焼きの土製品で、具象的な形体を表わさない円筒埴輪から始まり、やがて鳥形埴輪が登場、鳥以外の動物埴輪、人物埴輪がこれに続く。動物埴輪には犬、猪、牛、鶏、馬具を付けた馬などの出土例があり、人物埴輪には甲冑を付けた武人像、巫女、農民などさまざまな階層や立場の人物が表現されている。これらは、製法上の制約から、形体は単純で、人物の顔貌表現は横長の穴を開けることによって両眼と口を表現したものがほとんどである。素朴な表現と単純な技法ながら、人物の表情を巧みにとらえ、芸術的に高く評価される作品が多い。武人埴輪の中には、当時の刀剣や甲冑を忠実に表現した入念作もある。埴輪は、当時の人々の服装、髪型、化粧など生活の実態を具体的に知ることのできる視覚情報を提供してくれるという点でも、学術的に貴重な資料である。
[編集] 古代・中古
[編集] 飛鳥時代(飛鳥文化)
美術史上の飛鳥時代は、6世紀半ば、日本へ仏教が公式に伝来した時期から、7世紀後半の天智天皇の治世あたりまでを指す。この時代に入っても古墳の造営は引き続き行われているが、一応、仏教公伝の時期をもって古墳時代と区切っている。飛鳥時代の終期については、政治史上の区分では710年の平城遷都の年とするのが通常である。美術史上の区分でも710年までを飛鳥時代とする場合もあるが、法隆寺が火災で炎上した(『日本書紀』による)670年、ないし天武天皇即位の673年あたりを始期として、以後平城遷都までの期間は「白鳳時代」または「奈良時代前期」として別の時代と見るのが通例となっている。
この時代は、日本が初めて外来の宗教である仏教を受け入れ、その後の文化の下地をつくったという点で重要な時期である。仏教が百済経由で日本へ公式にもたらされた(仏教公伝)時期については、公式の史書である『日本書紀』には552年、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』には538年とあるが、今日では後者の538年を仏教公伝の年とするのが定説である。仏教の受容をめぐっては有力氏族である蘇我氏(崇仏派)と物部氏(排仏派)の間に対立があり、ついには武力抗争に突入するが、結果は崇仏派の蘇我氏が勝利した。6世紀末には日本最初の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)の建設が蘇我氏によって始められた。用明天皇の皇子である厩戸皇子(聖徳太子の名で広く知られる)は、仏教に深く帰依し、6世紀末に四天王寺、7世紀初めに法隆寺を建立した。聖徳太子は日本における仏教興隆の祖として神格化され、日本の仏教寺院では宗派を問わず崇拝の対象となっている。法隆寺の西院伽藍は現存する世界最古の木造建築として著名だが、『日本書紀』によれば、法隆寺は670年に一度焼亡しており、現存する同寺の伽藍はその後(7世紀末頃)の再建であることは発掘調査の結果等からも定説となっている。
- 彫刻
- 銅造釈迦三尊像(法隆寺金堂、止利作)
- 木造観音菩薩立像(法隆寺、百済観音)
- 木造観音菩薩立像(法隆寺夢殿、救世観音)
- 木造弥勒菩薩半跏思惟像(広隆寺、半島からの渡来像とも)
- 工芸
- 玉虫厨子(法隆寺)、天寿国繍帳(中宮寺)
- 建築
- 当代の遺品なし(法隆寺西院伽藍は飛鳥時代様式だが7世紀後半の再建)
[編集] 奈良時代
美術史上の区分では、法隆寺が焼亡した670年、ないし天武天皇即位の年である673年から、794年の平安遷都までを奈良時代とすることが多い。この場合、平城遷都の710年を境として、それ以前を奈良時代前期(または白鳳時代)、以後を奈良時代後期(または天平時代)と称する。時代の終期については、長岡遷都の年である784年とする見方もある。
710年の平城遷都に際し、当時飛鳥にあった法興寺(元興寺)、大官大寺(大安寺)、薬師寺、厩坂寺(興福寺)などの寺院はこぞって新京へ移転した。また、新京には東大寺、西大寺、唐招提寺などが新たに建立された。時の政権は仏教を厚く保護し、寺院の造営、仏像の造立、経典の書写などは国家の事業として実施された。中でも聖武天皇は仏教に深く帰依し、東大寺に大仏を造立し、また各国に国分寺・国分尼寺を建立することを命じた。平城京に都があった時代の文化は、年号から「天平文化」と呼ばれ、国際色豊かな仏教文化が栄えた。東大寺の倉庫であった正倉院の宝物は聖武天皇の遺愛品を中心とする8世紀美術の宝庫で、日本製品とともに唐からの舶載品を数多く所蔵する。天平時代は華やかな時代というイメージがあるが、一方で天災、凶作、権力者同士の抗争などが相次ぐ不安定な時代でもあった。
[編集] 奈良時代前期(白鳳時代)
[編集] 奈良時代後期(天平時代)
[編集] 平安時代
平安遷都の794年から1185年頃まで、9世紀から12世紀に至る約4世紀にわたる時代である。美術史では、遣唐使が廃止された894年あたりを境にして、以前を平安時代前期、以後を平安時代後期(藤原時代)と呼ぶことが多い。特に彫刻史の方面では平安時代前期を貞観(じょうがん)時代または弘仁時代と呼ぶこともあったが、特定の元号で平安時代前期を代表させることにはあまり意味がないことから、今日ではこれらの呼称はあまり用いられていない。
平安時代前期には空海、最澄が相次いで唐に渡航し、密教が日本に伝えられた。空海、最澄らが伝えた仏教思想や文物は美術の面でも大きな影響をもたらし、密教曼荼羅や、奈良時代には見られなかった本格的密教彫像がつくられた。日本の文化は常に中国大陸および朝鮮半島を主とする外来文化の影響を受け、仏教が文化全般に多大な影響を与えていた。それは平安時代も例外ではないが、この時代は、受容した外来文化が和風化し、文化のさまざまな面で「和様」が成立した時代としてとらえられる。遣唐使が中止された9世紀末以降、文化の和風化が進展し、漢字を元にして日本固有の文字である仮名が考案され、和歌や『源氏物語』に代表される物語文学が盛んになった。これらの文学は、絵画や書道作品のテーマとなり、工芸品のデザインにも大いに影響している。また、仏像、絵画、書道、寺院建築など、造形芸術の各方面で和様が確立した。平安時代後期には源信(恵心僧都)の『往生要集』などの影響で浄土教信仰が盛んとなり、また、1052年を「末法」の年と信じる末法思想(「末法」の年以後、釈迦の唱えた正しい仏法が行われなくなると信じられた)が流布した。このため、貴族らは西方極楽浄土への往生を願い、各地に阿弥陀堂や阿弥陀如来像が造立された。
[編集] 平安前期(弘仁時代・貞観時代)
[編集] 平安後期(藤原時代)
[編集] 中世
[編集] 鎌倉時代・南北朝時代
平氏滅亡の年であり、源頼朝によって全国に守護地頭が設置された1185年を鎌倉時代の始期とすることが多い。1180年には平重衡による南都焼き討ちで奈良(南都)の2大仏教勢力であった東大寺と興福寺が炎上したが、このことは美術史上、象徴的な事件であった。焼失した東大寺の大仏と大仏殿、興福寺の堂宇や仏像はただちに再建計画が進められたが、大仏と大仏殿の再建担当者に任じられたのは渡宋経験のある俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)であり、彼によって宋から伝来の新建築様式の大仏様が導入された。また、東大寺や興福寺の仏像再興には、康慶、運慶、快慶らの仏師が登用された。
この時代の前期には引き続き院政が行われていたものの、政治・文化の中心は次第に鎌倉へ移っていった。平氏は華麗な「平家納経」を残したことでもわかるように、一面で貴族文化に憧れをもっていたが、代わって政権をとった源氏は純然たる武家であり、美術の主要な享受者も前時代の貴族から武士へと移っていった。この時代には栄西、道元らの入宋僧によって日本にも本格的な禅宗が伝わり、比叡山などの旧仏教の圧迫を受けつつも、徐々に勢力を伸ばしていった。13世紀に京都の建仁寺建立を皮切りに、鎌倉にも建長寺、円覚寺などの本格的な禅寺が建立された。
南北朝時代は美術史的には過渡期ととらえられ、鎌倉時代に含めて論じられることが多い。ただし、刀剣武具の分野に関しては、長大な大太刀の流行など、明らかな「南北朝時代様式」があり、鎌倉時代とは別の時代とされることが多い。
[編集] 室町時代
南北朝分裂の時代を経て、室町幕府3代将軍足利義満の時代、1392年にようやく南北両朝は合一し、文化の中心は再び京都へ戻った。義満は京都の北山に山荘を営み(後の鹿苑寺=金閣寺)、この時代の文化を北山文化と呼ぶことがある。8代将軍の足利義政は為政者としての務めを怠り、茶道、書道、唐物(中国渡来の文物)愛玩などの趣味にふけっていたが、そのため文化の振興には大いに貢献した。彼の山荘(後の慈照寺=銀閣寺)が東山にあったことから、その時代の文化を東山文化と称することがある。義政の東山山荘は、後の書院造の原型であり、日本の伝統的住宅建築のルーツとなるものである。歴代の足利将軍は禅宗に帰依し、これを保護したため、京都を中心に禅宗寺院が隆盛し、そこから造園、文学、茶道など、さまざまな文化が生まれた。能もこの時代に観阿弥・世阿弥により完成されたものである。
[編集] 近世
[編集] 桃山時代
室町幕府が滅亡した1573年から、徳川政権が確立するまでの時代を指す。美術史上の区分では、豊臣家が滅亡した1615年までを桃山時代とすることが多い。半世紀に満たない短い期間であるが、美術史上は特に絵画と建築において特記される時代である。城郭建築が発達し、権力のシンボル的な天守閣が築かれ、御殿は華麗な障壁画で装飾された。室町時代に始まった茶の湯は千利休によって大成され、前時代の書院の茶から、草庵の茶、わび茶という独特の美意識が形成された。
[編集] 江戸時代
徳川家康が征夷大将軍に任ぜられたのは1603年だが、美術史上の区分では、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川幕府の支配体制が確立した1615年を桃山時代と江戸時代の区切りとすることが多い。この時代の美術は多様化し、その性格を一言で言い表わすことは困難であるが、古代・中世の美術が宗教(仏教)中心であったのに比べ、著しく世俗化の傾向が強まった。この時代は世情が一応安定し、2世紀以上にわたって大きな戦乱もなく、庶民の生活レベルも、それ以前の時代に比較すれば向上していた。そのため、美術の享受者層も増大し、寺社、公家、武家などに加え、裕福な町人層が有力なパトロンとなった。さらには、同じ作品を複数生産できる版画という方式の流布により、浮世絵のような町人の手に届く芸術が生まれた。文化の中心は上方(京都・大阪)と江戸に二分される。幕府開設当初、江戸の地はひなびた場所であり、上方が文化の先進地域であったが、やがて諸国の人材が集まる江戸に美術の担い手が集まるようになった。各地方においても陶磁、漆工芸など独自の工芸品が生産されるようになった。
[編集] 寛永期(前期)
[編集] 元禄期(中期)
[編集] 化政期(後期)
[編集] 近代
[編集] 明治時代
幕末、ヨーロッパの万国博覧会に出展した幕府や各藩の工芸品や美術品はすぐれた装飾品として絶賛され、日本の工芸へのヨーロッパからの関心が高まり、外貨を稼ぐ輸出品となる可能性が開かれた。しかし、日本には西洋のような「美術」と「工芸」の厳然たる区別は無く、日本の美術品は総じて装飾的・工芸的とみなされヨーロッパ美術よりも一段低いところに置かれた。(しかし、ヨーロッパ美術界でアカデミズムの影響や、美術と工芸の境界が揺らぎ始めたこの時期、日本の美術品は前衛的な芸術家らにジャポニズムという強力な影響を与えることとなった。)
明治維新後の近代化と社会の激変によりそれまでの日本美術は大きく揺れ動いた。政府は早急に西洋式の「ファイン・アート」(純粋美術)を導入してヨーロッパ諸国に恥じない芸術の体裁を整えようとし、一方日本の諸派の絵画などは旧弊なものとみなされ存続の危機に陥った。また廃仏毀釈や大名家の没落に伴い、多くの優れた美術品が古道具市場にあふれ、美術商だった林忠正らの積極的な売買により欧米に流出しそのまま帰らなかった。ただし西洋式の絵画などを導入した動機の最大のものは建築や都市計画などの設計のためというもので、工部美術学校などがその舞台となり、芸術という概念は政府にもなじみの薄いものであった。しかしここから多くの洋画家や彫刻家が誕生する。
やがて近代化が一段落すると、今度は国粋主義や、民族国家としての民族独自の美術を求める動きが起こり、再び日本美術に目が向けられるようになる。フェノロサや岡倉天心らは、政府から万国博出展のために「日本美術史」の解説を書いてほしいとの依頼を受け、短期間で日本の美術の通史を書き上げた。これが現在われわれの知る日本美術史の原型であるが、その際海外への紹介に適さないとされた作家はリストから零れ落ち、長らく忘れ去られた。
その後フェノロサ・岡倉天心らは日本の美術の優秀性を説き、東京美術学校開校後は岡倉天心らの手により西洋画は排斥され、工部美術学校出身者らは明治美術会を作って対抗する。林忠正による印象派の紹介や、海外留学から帰った黒田清輝らの出展で、明治美術会や洋画家らは混乱しながらもヨーロッパの最新の絵画運動を取り入れ活発な活動を行った。その後天心らが東京美術学校から追放され、横山大観や下村観山らとともに日本美術院を結成する。また京都画壇の竹内栖鳳らをはじめ多くの日本絵画の作家らがヨーロッパに留学し、やがてこうした動きから、諸派の絵画や西洋画の影響も取り入れた新しい民族美術として日本画が誕生した。
1907年、政府によるはじめての公募展、文部省第一回美術展覧会(文展)がおこなわれ、日本画・洋画・彫刻の各部門、新旧の作家らが一堂に展覧された。