曹コン
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曹 錕(そう こん、Cao Kun、字は仲珊、1862年 - 1938年)は、清末から中華民国期にかけての軍人、政治家である。河北省天津出身。北洋軍閥直隷派の首領。中華民国大総統。陸軍上将。
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[編集] 袁世凱の子飼いから直隷派トップへ
天津の貧しい家に生まれながらも北洋武備学堂を卒業し、日清戦争では鴨緑江方面で戦った。のち袁世凱の北洋軍閥に属し、信頼を得て昇進し満洲で第3鎮統制となる。辛亥革命に際しては、たまたま山海関内にいたため、袁の指示を受けて北京で兵乱を起こし、北京を首都とすることに成功。
袁世凱の忠実な部下として仕え、1913年の第二革命では、湖南方面に出撃。1915年に袁世凱が皇帝を称した際も、いち早く支持を表明。「虎威将軍」に任命される。1916年の第三革命では岳州に駐屯。呉佩孚らを伴って四川に進撃した。袁の死後は、直隷省長兼督軍となり、馮国璋とともに軍閥を引き継ぐ。1919年の馮国璋の死後は直隷派のトップとなる。
1920年奉天派の張作霖と組んで安徽派の段祺瑞と戦って(安直戦争)勝利し、さらに1922年には第一次奉直戦争に勝利し、張作霖を排除。大総統徐世昌を追放し黎元洪を傀儡として擁立し、呉佩孚とともに直隷派の全盛期を現出した。しかし呉佩孚の擡頭により、直隷派は曹錕の保定派と呉佩孚の洛陽派に分裂(さらに保定派からは、曹錕の弟・曹鋭の天津派も分裂)しつつあった。
[編集] 賄選総統
そこで曹錕は直隷派内での覇権を確立せんと、米国の支持を得て、大総統に就任しようとはかった。米国公使への工作が実り、1923年6月にハーディング大統領から中国統一支持声明を引き出すにいたる(なおハーディングは同年8月に急死)。同月、黎元洪を天津に追放すると、国務総理高凌霨や議長呉景濂らを利用して大々的に議員の買収と脅迫を行い、10月には北京政府の大総統に就任、憲法を公布した。しかし、その金権体質から「賄選総統」「賄選憲法」「猪仔(豚の子)総統」などと称されることになる。
[編集] 軟禁、解放から引退へ
しかし大総統就任時より、すでに直隷派の実権は事実上呉佩孚に奪われており、さらに1924年の張作霖との第二次奉直戦争に敗北する中、馮玉祥が起こしたクーデタ(寝返り)により、大総統府に拘禁されてしまう。北京の主導権も直隷派から奉天派に移った。1926年には呉佩孚が張作霖と連合して馮玉祥を破り、軟禁されていた曹錕も救出・解放され、いったん保定に帰るが、呉佩孚が蒋介石の北伐軍に敗れて湖南・湖北を喪失し失脚すると、曹錕は故郷の天津に引退し、1938年そこで没した。
[編集] 関連項目
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