水野忠義
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時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 寛政4年9月26日(1792年11月10日) | |||
死没 | 天保13年1月19日(1842年2月28日) | |||
別名 | 惣兵衛(幼名) | |||
戒名 | 共徳院寛誉泰安義山 | |||
墓所 | 東京都文京区小石川の伝通院 | |||
官位 | 従四位下、大和守、出羽守 | |||
藩 | 駿河沼津藩主 | |||
氏族 | 水野氏 | |||
父母 | 父:水野忠成 母:水野忠友の娘・八重姫 |
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妻 | 正室:松平乗寛の娘 側室:よし |
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子 | 水野惣兵衛、水野忠武、 水野忠良、娘(土方雄嘉室) |
寛政4年(1792年)9月26日、第2代藩主・水野忠成の長男として江戸浜町屋敷で生まれる。文化5年(1808年)12月11日に従四位下、大和守に叙任する。天保5年(1834年)の父の死去により家督を継いで藩主となり、出羽守に転任した。
藩政においては家臣団統制に苦慮し、そのために家臣団統制に尽力した。しかし幕命により天保6年(1835年)8月、江戸城普請に1万両、西の丸修理費用に1万両の提出を命じられるなど、藩財政はさらに苦しくなった。天保13年(1842年)1月19日に江戸外桜田屋敷で死去。享年51。
後を次男の水野忠武が継いだ。
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