池田重利
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池田 重利(いけだし げとし、天正14年(1586年) - 寛永8年1月10日(1631年2月10日))は江戸時代初期の大名で播磨・新宮藩の初代藩主。元は本願寺の坊官であり、下間 頼広(しもづま らいこう)と名乗っていた。父は下間頼龍。母は池田恒興の娘(実は織田信長の姪ともいう)。正室は山口正弘の娘。
初め、父親と共に東本願寺を開いた教如に仕えていた。だが、教如とは相性が悪く、父親が死んだ慶長14年(1609年)に母方の叔父である池田輝政の元へ出奔してしまった。下間頼広はかつて一向一揆を率いていた本願寺の坊官に相応しく学識だけではなく武芸にも通じていた事から、叔父から仕官を勧められて3,000石をもって輝政の嫡子・利隆の補佐を命じられた。4年後、利隆が輝政の後を継ぐと池田姓を与えられて「池田重利」と改名し、翌年には池田氏重臣として徳川家康に拝謁している。
大坂の陣では尼崎城を守って戦功があり、戦後に家康から1万石を与えられて大名となった。寛永3年(1626年)には播磨国揖東郡新宮(現在の兵庫県たつの市新宮町)に陣屋を設置し、新宮藩を創設した。
寛永8年(1631年)に46歳で死去し、その後は子の重政が継いだ。
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