播磨新宮藩
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新宮藩(しんぐうはん)は江戸時代初期に播磨国揖東郡内で1万石を領有した藩。藩庁は新宮陣屋(兵庫県たつの市新宮町新宮)。
[編集] 藩史
藩祖池田重利は、本願寺総領家坊官で顕如上人の執事を務めた下間頼竜の嗣子に生まれ、本来の名を下間頼広と言う。教如上人と争って出奔し、母親の実家で叔父の姫路藩主池田輝政を頼りその家臣となった。頼広はその武勇を認められ慶長18年(1613年)輝政の嗣子利隆より池田姓と揚羽蝶紋を許された。利隆の片諱を与えられ池田越前守重利と改名、池田一門衆に序列された。
重利は元和元年(1615年)の大坂の陣で戦功を挙げ、摂津国川辺郡・闕郡で1万石を与えられ大名に取り立てられた。元和3年(1617年)播磨国揖東郡に所領を移され、新宮藩が立藩した。寛永3年(1626年)には陣屋が完成した。
寛文3年(1663年)3代薫彰が31歳で病死。跡目を嗣子邦照が6歳で継ぎ4代藩主となったが、寛文10年(1670年)僅か13歳で早世した。邦照の弟に重教があったが末期養子が認められず新宮藩は4代53年で廃藩となった。
廃藩となった同年、主家の備前国岡山藩主池田光政や因幡国鳥取藩主池田光仲らの幕府への運動もあって、重教は改めて新宮周辺で3千石を与えられ交代寄合として家名の存続を許された。
以後、13代目の頼誠の時に明治維新を迎えた。幕末に至って大名への復帰を願い岡山藩の助力も仰いだが、鳥取藩からの援助を受け同じ交代寄合から再立藩した福本藩と異なり、再び立藩することは叶わなかった。
明治2年(1869年)新宮領は生野県に編入され、新宮池田家の支配は終わった。のち、生野県は豊岡県を経て兵庫県に編入された。
[編集] 歴代藩主
- 池田(いけだ)家 (1617年 - 1670年)
外様 10,000石