河尻秀隆
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河尻 秀隆(かわじり ひでたか、1527年(大永7年) - 1582年7月7日(天正10年6月18日))は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。甲斐府中城主。河尻親重の子。河尻秀長の父。受領名は肥前守。
尾張生まれ。幼名は与兵衛。織田信武に仕えた後、織田信秀に仕え小豆坂の戦いなどで戦う。織田信長にも仕え黒母衣衆(くろほろしゅう)の筆頭を務める。1558年、信長が弟の織田信行を謀殺するために清洲城へ呼び寄せたときには、信行の殺害を実行したとされる。桶狭間の戦いをはじめ、美濃や伊勢の攻略などに従軍する。
1575年、信長の命を受けて、信長の嫡男・織田信忠の軍に与力し、美濃岩村城5万石を与えられる。同年長篠の戦いにも信忠を補佐して参陣した。『信長記』には、信長が信忠に「秀隆を父と思って何事も相談せよ」と述べたという、信長から信頼を寄せられていたことを示す記述がある。
1582年の武田氏攻め(天目山の戦い)においても大いに活躍し、その功績により信長から甲斐国他22万石を与えられた。しかしその3ヶ月後、信長が明智光秀に襲撃されて自害する本能寺の変が起こる。その際に領国・甲斐で武田氏の旧臣による国人一揆が起こり、その混乱の中で岩窪において殺害された、享年56。法名は長蔵寺院洞水瑞雲。
本能寺の変後は徳川家康に支援を求め、甲斐に留まろうとした。しかし家康からは逆に上方に帰るよう勧められる。このとき口上を伝えにきた使者・本多信俊を斬ったため、江戸時代に名を貶める結果となる。この事件の背景には甲信地方の領有をめぐって家康との利害の対立があった。