法界寺
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法界寺 | |
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阿弥陀堂(左手前、国宝)と薬師堂(右手奥) |
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所在地 | 京都府京都市伏見区日野西大道町19 |
位置 | 北緯34度56分2.96秒 東経135度48分53.7秒 |
山号 | 東光山 |
宗派 | 真言宗別格本山 |
本尊 | 薬師如来(重要文化財) |
創建年 | 永承6年(1051年) |
開基 | 日野資業、最澄 |
正式名 | |
別称 | 日野薬師、乳薬師 |
札所等 | 西国四十九薬師38番 |
文化財 | 阿弥陀堂、阿弥陀如来坐像(国宝) 本堂、木造薬師如来立像、木造十二神将立像、阿弥陀堂内陣壁画(重要文化財) |
法界寺 (ほうかいじ)は、京都市伏見区日野にある真言宗別格本山。山号を東光山と称する。本尊は薬師如来、開基は伝教大師最澄とされている。藤原氏の一族である日野氏の氏寺で、「日野薬師」あるいは「乳薬師」の別名で知られる薬師信仰の寺であるとともに、国宝の阿弥陀堂と阿弥陀如来像を有することでも知られる。
目次 |
[編集] 起源と歴史
法界寺は、醍醐寺の南方、宇治市との境界に近い、京都市伏見区日野に所在する。日野は、『方丈記』の著者である鴨長明の住んだ地であり、親鸞の生誕地としても知られる。かつて山城国宇治郡日野と呼ばれたこの地は、日野氏の領地であった。日野氏は藤原北家の一族で、儒学や歌道をよくした家柄である。
平安時代後期の永承6年(1051年)、もと文章博士(もんじょうはかせ)で後に出家した日野資業(すけなり)が、薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりとされている。薬師如来像の胎内には、日野家に代々伝わる、伝教大師最澄自作の三寸の薬師像を納入したという。
寺の草創時期については別の伝えもある。すなわち、日野資業の4代前の藤原家宗が弘仁13年(822年)、最澄自作の薬師像を本尊とし、最澄を開基として一族の氏寺を建てたとするものである。
その後、平安後期の阿弥陀信仰の高まりや末法思想の普及にともない、法界寺にも阿弥陀堂が建てられた。平安時代後期の法界寺には、当時の日記等の記録で判明するだけで少なくとも5体の丈六の阿弥陀如来像が存在したことがわかっている。現在、阿弥陀堂に安置される像がそのうちのどれに当たるかは判明していない。
なお、浄土真宗の開祖である親鸞は、承安3年(1173年)に日野有範の子として、法界寺にて生まれたとされている(法界寺の近くには親鸞の生誕地にちなんで江戸時代に創建された日野誕生院がある)。
[編集] 伽藍
薬師堂(本堂、重文)-1904年(明治37年)、奈良県斑鳩町竜田にあった伝燈寺の本堂を移築したもの。室町時代、康正2年(1456年)の建築。「伝燈寺」については、斑鳩町の竜田神社付近にあったと思われるが詳しいことはわかっていない。本尊薬師如来立像(重文)は平安時代後期の作で、この像に祈願すると女性の乳の出がよくなるとされ、「乳薬師」として信仰を集めている。
阿弥陀堂(国宝)-鎌倉時代初期の建築。承久3年(1221年)の兵火で焼失後、まもない頃の建立と推定される。方五間(正面、背面、両側面の柱間の数がいずれも5間)の堂の周囲に1間の裳階(もこし)をめぐらした形で、屋根は宝形造(ピラミッド形)で檜皮葺きである。内陣の柱や長押上の小壁には創建当時の絵画が残る。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 阿弥陀堂-既述
- 阿弥陀如来坐像-11世紀末頃の作。阿弥陀堂の本尊。像高2.8メートルの巨像で、仏師定朝の様式を受けた定朝様(よう)の阿弥陀像の典型的な作品。
[編集] 重要文化財
- 本堂
- 木造薬師如来立像
- 木造十二神将立像
- 阿弥陀堂内陣壁画
[編集] 札所
- 西国薬師第38番
[編集] 年中行事
日野の裸踊り(1月14日) - 京都市登録無形民俗文化財
[編集] 所在地
京都府京都市伏見区日野西大道町19
[編集] 利用情報
- 開門時間
- 9時~17時(10~3月は、9時~16時)
- 交通アクセス
- 京都市営地下鉄東西線 石田駅 徒歩20分
[編集] 周辺情報
- 日野誕生院
- 一言寺
- 萱尾神社
- 醍醐寺