浅井政貞
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浅井 政貞(あさい まささだ、生没年不詳)は戦国時代の武将。通称は新八郎(しんはちろう)で、諱は子孫から江戸幕府に提出された『寛政重修諸家譜』によれば政貞とされているが、他にも政澄(まさずみ、『信長公記』)・賢政(かたまさ、『一豊公御武功附御伝記』)など各史書によって異なっている。尾張国(愛知県西部)の土豪出身で、織田信長に仕えた。
尾張国中島郡の苅安賀城(一宮市苅安賀)主。尾張浅井氏の出身で、近江(滋賀県)の浅井氏の庶流ともいわれるが、近江浅井氏がまもなく有名になったための付会であるとも考えられ、定かではない。また、父として浅井信濃守という名が残る。このほか、もと黒田城(一宮市木曽川町黒田)主の子で、浪人中の若き山内一豊が永禄初年に一時身を寄せていたとの記録も残ることから、山内氏と縁続きであったとも考えられる(山内家が所蔵する『御武功記』には一豊と新八郎が従兄弟であったとの記載がある)。
織田信長にはその尾張統一以前の早い時点から仕えたと考えられ、赤母衣衆の一員となった。永禄11年(1568年)の上洛の際には、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)らとともに近江国神崎郡の箕作城(東近江市五個荘町)攻撃を行ったことが『信長公記』に記載されている。天正2年(1574年)以降には尾張・美濃の支配を行うこととなった信長の長男・信忠の軍に組み入れられた。その後天正4年に信忠に従って播磨(兵庫県南部)に出兵したとの記録を最後にして、以降は没したためか史書には登場しない。
新八郎の子として浅井田宮丸及び浅井政重の名が残る。田宮丸は家老として織田信雄に仕えたが、天正12年(1584年)3月に羽柴秀吉との通謀を疑われ、岡田重孝・津川義冬ら他の家老とともに主君に誅殺されている。
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