深水長智
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深水長智(ふかみ ながとも、天文元年(1532年) - 天正18年(1590年))は相良氏の家臣。
深水氏は代々、相良氏の奉行職を務める家柄であったが、この長智は特に奉行としての手腕に長けていた。
1581年に主君・相良義陽が戦死すると、当時島津氏の配下にあったため、島津義久は相良氏を義陽の死をもって取り潰そうとした。しかし、このとき長智は義久と交渉して、義陽の遺児・相良忠房(相良頼房の兄)への家督相続を承認させている。また、その後の島津氏との関係を良好に保つことができたのも、この長智の功績である。
豊臣秀吉の九州征伐が始まると、秀吉と八代城にて会見し、相良氏の存続について交渉し、それを承認させている。このとき、秀吉は長智の交渉能力や連歌の才を大いに気に入り、秀吉の直轄領である水俣地方の代官を任された。
いわば長智は、相良氏における外務大臣であった。