相良義陽
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相良 義陽(さがら よしひ(よしはるとも)、天文13年2月8日(1544年3月1日) - 天正9年12月2日(1581年12月27日))は相良晴広の子。初名は頼房。肥後国人吉城城主。
1555年、父・晴広が死去したため、家督を継承した。しかし、まだ幼少であったため、実権は晴広の実父である上村頼興が握っていた。1557年、頼興が死去したため自ら親政を行なおうとしたが、このとき、頼房の家督相続に不満を持っていた頼興の次男で晴広の弟に当たる上村頼孝が、二人の弟とともに頼房に対して謀反を起こした。この三人は、義陽を打倒して相良領を分割支配しようとしたらしいが、頼房により鎮圧され、謀反は失敗に終わり、1567年に謀反の張本人である頼孝も殺害された。
それでも頼房の勢力拡大が続き、肥後国南部の水俣城を奪還し、薩摩や大隅・日向の一部にも進出した。1564年には将軍足利義輝から修理大夫の官途と「義」の一字が与えられて「義陽」と名乗る。この事は周辺諸国に衝撃を与え、大友宗麟と島津義久が室町幕府に激しく抗議をしている。
この頃になると、南から島津氏の侵攻が開始されるようになり、義陽は対島津氏の最前線である大口城をめぐって何度も戦った。1568年には初栗合戦で島津軍を破るが、翌年の砥上合戦で敗北して1526年以来相良領であった大口城を失って薩摩における領土を失った。1572年の木崎原合戦では伊東義祐と連合して島津義弘を挟み撃ちにする計画であったが、義弘の奇襲によって伊東軍が壊滅、慌てて引き返した。1575年には織田信長の依頼を受けた前関白近衛前久が相良氏を初め、島津・伊東・大友の諸氏に和解を勧め、連合して毛利輝元を討つ様に説得工作にあたった。伊東氏を滅亡寸前に追い込んでいた島津氏の反対によって工作自体は成功しなかったものの、摂関家の長たる前久の来訪は相良氏始まって以来の大事件であり、感動した義陽は前久に臣下の礼を取り、逆に前久も義陽の朝廷に対する崇敬の純粋さに感動して島津義久に迫って一時停戦を受け入れさせたほどであったという。
しかし1579年になると、島津義久の猛攻の前に水俣城が包囲され、その後も猛攻が繰り返されたため、遂に1581年、義陽は葦北郡を割譲し、息子の相良忠房や相良頼房を人質として差し出すことで降伏した。
そして降伏した同年、島津義久より阿蘇氏攻めを命じられた。義陽は阿蘇氏の軍師・御船城主甲斐宗運と親友の間柄で、相互不可侵を誓い合っていたが、もはや島津氏の命に逆らうこともならず、白木妙見社にて宗運と交わした誓紙を焼き捨てさせ、自らの死を祈願して出陣した。この時島津氏は、義陽の忠誠を信じ、人質の相良忠房を送り返している。
相良軍は、阿蘇氏の出城、甲佐城、堅志田城に進撃、義陽は守りには向かない響ケ原(宇城市豊野)に本陣を敷いた。両城が陥ちたとの報せを受け、宗運は義陽の陣を奇襲、相良勢は壊滅。義陽は退却を勧める家臣の言を無視して、床机に座ったまま敵兵に斬り殺されたという。
島津義弘も甲斐宗運も義陽の討死の報を受け、悲嘆したと言われている。
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