渋川一流
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澁川一流(しぶかわいちりゅう)とは、 日本の伝統武術である柔術の流派である。
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[編集] 由来
澁川一流柔術の流祖 首藤藏之進満時は、彼の叔父で宇和島藩浪人と伝えられる宮崎儀右衛門満義につれられて広島藩安芸郡坂村に居住しました。藏之進は宮崎儀右衛門を師として澁川流および難波一甫流を習得し、さらに武者修行の途上、浅山一伝流をも習得して三流をもとに「澁川一流柔術」を創始しました。 ある日、広島城下に出ていた首藤藏之進は五、六名の広島藩士と争いになりましたが、澁川一流柔術の業でこれを難なく退けたところ、たまたま居合わせた松山藩士がこの見事な働きを見ており、その藩士の推挙によって松山藩に仕えることになったと伝えられています。これは天保10年のころのことと伝えられていますが、この後、首藤藏之進は小玉平六と名乗り、松山においても澁川一流柔術の教授をおこなったと伝えられています。 明治維新以降は親族のいる広島県安芸郡坂村にたびたび帰り、広島の門弟にも澁川一流柔術を伝え残し、明治30年、八十九歳で松山において没しています。 師伝によれば、澁川一流の流名は首藤蔵之進が修行した三つの流派の流名に由来し、あわせると渋川一甫一伝流となり、この意から「澁川一流」と命名されたと伝えられています。
[編集] 系譜
流祖 首藤藏之進満時―宮田友吉国嗣―車地国松政嗣―畝重實嗣昭―森本邦生嗣時
[編集] 流儀の特徴
澁川一流柔術の形は徒手に対して徒手や懐剣、三尺棒、刀等の仕掛けに応じる術と棒術(互棒・小棒・三尺棒・六尺棒)、十手術、分童術、鎖鎌術、居合術などの得物を用いる術から成り立っています。 形は約400ほどありますが、その特徴はすべての形に飾り気がなく、素朴で単純な動きで相手を制するところにあります。 形は受の仕掛けの方法によってグループ分けされており、最初に稽古する履形(受が中段または下段を突いてくるのを制する形)の35本の形が全ての形の基本となっています。 それぞれの形のグループの多くには「礼式」があり、そのなかに受を制することなく、押し返すのみの動作があります。これは澁川一流柔術の理念が人と争わないことにあるということを表しています。 形の稽古のほかに錬鍛法として棒抜けや枕引きなども伝えられており、柔道の乱取りに相当する意地(治)稽古も伝えられています。