溝口宣勝
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溝口 宣勝(みぞぐち のぶかつ、1582年(天正10年) - 1628年11月24日(寛永5年10月29日))は、越後国新発田藩の第2代藩主。初代藩主・溝口秀勝の長男。幼名は久三郎。通称は主膳正・伯耆守、官位は従五位下。母は長井源七郎の娘。正室は堀秀政の娘。子は溝口宣直(長男)、溝口宣秋(次男)、溝口宣俊(三男)、溝口宣知(四男)、長女(沢海藩主・溝口政勝正室)、次女(旗本・長谷川正尚(美濃長谷川藩主・長谷川守知の嫡男)室)、三女(旗本・徳永昌勝正室)がいる。
天正10年(1582年)若狭国高浜(現福井県高浜町)に生まれる。はじめ父と共に豊臣秀吉に仕え、慶長2年(1597年)諱を許され秀吉の一字を賜り秀信と称す。のち宣勝と改める。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、上杉景勝に扇動された越後一揆を父とともに征圧した。
慶長15年(1610年)、父の死により後を継いで新発田藩第2代藩主となった。このとき、溝口氏は6万石の大名であったが、宣勝は相続するにあたって、弟の溝口善勝に1万2000石を分与させた(沢海藩)ため、新発田藩の石高は5万石となった(2000石分は新田開発によるもの)。このとき善勝は生前に父から分与されていた5000石の領地を兄宣勝に返し、自らは僅かの領地を改めて分与されたいと申し出、一方宣勝は「自分は家督を継いで国元に行くが、弟善勝は江戸に留まるので領地が少なくては奉公を勤められない」と言って承知しなかった。これを聞いた徳川秀忠は感心して先述の通りの分与を申しつけたというエピソードが伝わっている。
宣勝は治世を通じて積極的な新田開発を行ない、1万5500石を新たに得た。だが、宣勝の死後、この1万5500石はその次男・宣秋、三男・宣俊、四男・宣知の3人の息子にそれぞれ分与され、嫡男の宣直が引き継いだ新発田藩の石高はやはり5万石であった。
慶長20年(1615年)の大坂の陣では松平忠輝に属して出陣した。寛永5年(1628年)10月29日、江戸において47歳で歿。法号は傑岑善英松嶽寺(松嶽寺殿前伯州大守傑岑善英大居士とも)。江戸神田の吉祥寺(のち駒込に移り東京都文京区本駒込に現存)に葬り、同寺は江戸における同家代々の葬地となった。
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