溝口秀勝
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溝口 秀勝(みぞぐち ひでかつ、1548年(天文17年) - 1610年11月13日(慶長15年9月28日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。越後国新発田藩の初代藩主。溝口氏は甲斐源氏の逸見氏の庶流という。官位は従五位下伯耆守(ほうきのかみ)。
尾張国中島郡溝口の出身。幼名を竹千代という。のち金右衛門定勝と称す。溝口郷の領主・溝口彦右衛門勝政の長男。母は竹田氏。
幼少時から丹羽長秀の家臣として仕えていたが、1581年に織田信長からその才能を見出されて、織田氏の直臣として取り立てられ、5000石の所領を与えられて、若狭国高浜城主となった。1582年、本能寺の変で信長が横死したため、再び丹羽長秀の家臣となり、1583年の賤ヶ岳の戦い後、長秀から4万4000石の所領を与えられて、加賀国大聖寺城主となった。
1585年、長秀が没すると、その後を継いだ丹羽長重にしばらくは仕えていたが、間もなく長重のもとから去って豊臣秀吉の家臣となる。そして、秀吉の命により、堀秀政配下の与力大名として配属された。1586年、秀吉から『秀』の一字を与えられ、秀勝と名乗る。1598年、秀吉より越後国に6万石の所領を与えられ、新発田城を再興して城主となった。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、越後で上杉景勝(西軍)の煽動した一揆の鎮圧に努めた。その功績により戦後、徳川家康から所領を安堵されたのである。
長井源七郎の娘を妻に迎え、その間に二男五女を儲けた。長男・溝口宣勝は秀勝の家督を継いで第二代新発田藩主となり、次男・溝口善勝も分家して沢海藩を興した。また長女(次女とも)は公家の中院通村(内大臣)の室となっている。また五女溝口秋香は一族の家臣溝口盛政に嫁いだが、その間に生まれた六女は、中山弥次右衛門に嫁ぎ、この間に赤穂浪士四十七士のなかで一番の剣客として知られる堀部安兵衛が生まれた。(したがって堀部安兵衛は溝口秀勝の曾孫の一人ということになる。) [要出典]
秀勝は1610年に新発田において63歳で歿した。法号は性翁淨見寶光寺(寳光寺殿性翁淨見大居士とも)。自らが開基した新発田城下の淨見寺に葬られた。同寺は後に寺号を寶光寺と改め新潟県新発田市諏訪町に秀勝の墓所とともに現存している。
なお信濃国小笠原氏の家臣にも一字違いの溝口長勝という者がいるが、この人物と秀勝はなんら関係はない。
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