滝尻王子
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滝尻王子(たきじりおうじ)は和歌山県田辺市にある神社。九十九王子の一社で、五体王子のひとつに数えられる。
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[編集] 概要
[編集] 神域への入口
滝尻王子は、熊野の神域への入り口として古くから重んじられてきた。1109年(天仁2年)の藤原宗忠参詣記の滝尻の項にも、「初めて御山の内に入る」と添書きがあるだけでなく、『源平盛衰記』にも同じ趣旨の記述を見出すことができる。
滝尻王子は、富田川(岩田川)と石船川(いしぶりがわ)の合流する地点に位置し、「滝尻」の名も、2つの急流がぶつかりあって滝のように音高く流れたことに由来すると言う。古来の参詣道を精確に推定することは困難だが、参詣者が初めて富田川に出会う稲葉根王子から滝尻王子まで、参詣者は何度となく、岩田川を徒渉しなければならず、一種の難所であった。藤原定家は1201年(建仁元年)の『熊野道之間愚記』の10月13日の条で、この間の道中について、幾度も川を渡り山を越さなければならないと述べると同時に、紅葉が川面に映るさまを見事であると称えている。
滝尻王子に至った参詣者たちは、奉弊を行い、王子の目の前の流れに身を浸して垢離の儀礼を行った。滝尻王子における垢離について、仁和寺蔵の『熊野縁起』には興味深い記述が見られる。すなわち、
- 滝尻で水浴する事は、右河は観音を念じて浴す、左河は薬師を念じて沐す。
とあり、右の川(岩田川)は観音菩薩の補陀落浄土から落ちてくる水であり、左の川(石船川)は薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる水であると念じて水浴せよ、と滝尻でとる垢離の意義を説いている。
[編集] 芸事奉納
中世熊野詣においては、しばしば里神楽や経供養が行われことが、1174年(承安4年)の藤原経房の参詣記『吉記』や『熊野道之間愚記』に見られる。
また、ときには後鳥羽院の参詣の際の様に歌会が開かれることもあった(『熊野道之間愚記』)。その歌会の参加者が自らの詠んだ歌を書き付けた懐紙を熊野懐紙(くまのかいし)が、30数葉現存し、そのうち11葉が、1200年(正治2年)12月6日の滝尻王子での歌会のものである。熊野懐紙は、当時の歌人に珍重され、都で高値で売買されて、後鳥羽院政の収入にもなったという。
[編集] 盛衰
しかし、1221年(承久3年)の承久の乱以後、都の皇族・貴紳の熊野参詣が途絶えると、荒廃がすすんだ。承久の乱からわずか8年後の1229年(寛喜元年)の藤原経光参詣記は、王子が軒並み破壊転倒している様を伝えている。その中で、滝尻王子は、破壊転倒こそ免れているものの、目に余る荒廃の様相を呈していたと伝えられている。
その後、室町時代頃までには、富田川を何度も渡渉しなければならない難路であることが嫌われて、参詣道が潮見峠越えに移行し、滝尻王子を経由しなくなったため、滝尻王子は近隣の住人のための叢社の地位に戻ったと考えられている。
明治期には、栗栖川村内の10の集落の神社を合祀したことから十郷神社(とごうじんじゃ)と称され、社殿の改築も行われた。しかし戦後には、各集落が御神体を持ち帰ったために、旧状に復すとともに、滝尻王子宮十郷神社と呼ばれるようになった。
[編集] 所在地
- 田辺市中辺路町栗栖川字平原859
[編集] 交通機関
[編集] 参考文献
- 宇江敏勝、2004、『世界遺産熊野古道』、新宿書房 ISBN 4880083216
- 小山靖憲、2000、『熊野古道』、岩波書店(岩波文庫) ISBN 4004306655
- 熊野路編さん委員会、1973、『古道と王子社:熊野中辺路』、熊野中辺路刊行会(くまの文庫4)
- ——、1991、『熊野中辺路:歴史と風土』、熊野中辺路刊行会(くまの文庫別巻)
- 西 律、1987、『熊野古道みちしるべ:熊野九十九王子現状踏査録』、荒尾成文堂(みなもと選書1)
[編集] 関連項目
- 紀伊山地の霊場と参詣道
- 熊野信仰
- 熊野古道 - 中辺路
- 九十九王子
- 鮎川王子 - 滝尻王子 - 不寝王子