濃姫
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濃姫(のうひめ、天文4年〔1535年〕?-慶長17年7月9日〔1612年8月5日〕?)は、斎藤道三の娘。織田信長の正室。名は江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』などから帰蝶とされているが、それ以前の史料からは正確な名前は確認できない。
[編集] 経歴
結婚当初は、鷺山城で生まれ育った事から、「鷺山殿」と呼ばれていたようだ。「濃姫」という通称は「美濃出身の高貴な女性」という意味であり、結婚後のものとされるが、後世作られたものという話もある。斎藤道三と明智光継の娘小見の方の娘。明智光秀とは従兄妹同士という説があるが、光秀自身の前半生は不明である為、確定は出来ない。
一般には、知的で気性のしっかりした女性であり、従順な妻という意味とは別の意味で、信長にとって良き妻であったとのイメージがある。これはおそらく山岡荘八の小説の影響であると思われる。しかし、実際には濃姫の史料は極めて乏しく、その実像には謎が多い。
天文18年2月24日(1549年3月23日)に政略結婚で信長に嫁いだ。二人の間には子ができなかったというのが通説だが、信長の子供は生母不明の者が多く、本当に子がいなかったかどうかは確認できない。二人の間に娘のいる家系図が残っていたり、御台出産記事のある文献もある。ただし、一次資料ではないため無視されているというのが現状である。
前述のようにその人物像は不明で、織田家に嫁いだ後の消息は早世説・離婚説など諸説に分かれている。
本能寺の変で薙刀を振るい戦死したというものもあるが、時代小説などで用いられている本能寺の変での死亡説の信憑性は低いと考えられる。
一説に、濃姫(帰蝶)の生存を示すのではないかと考えられる史料として、信長が美濃を制圧した時期である永禄12年(1569年)の『言継卿記』に斎藤家親族の「信長本妻」の記述がある。『近江國輿地志』にも、信長と御台所が共に成菩提寺に止宿したと言う記述もあり、おそらく永禄11年(1568年)頃の記述と思われ、前述の『言継卿記』の記事の前年である事から帰蝶の事と考えられる。なお当該記事には、御台出産が書かれている。また『勢州軍記』には、信長の御台所である斉藤道三の娘に若君が生まれなかったため側室が生んだ信忠(幼名、奇妙または奇妙丸)を養子とし嫡男とした、などの記述も見られる。また『明智軍記』にも尾張平定後の饗膳の際に、信長内室(正室の濃姫)が美濃討伐の命令を望む家臣達に感謝し、家臣達にたくさんのあわびなどを振舞ったという記載がある。「明智軍記」は元禄年間(最古の元版は1693年版)の幕府作成のものであるので、史実と異なる点や歪曲している点なども多くみられるが、少なくとも作成時の段階では一般的に濃姫は尾張平定後も信長の正室として存在しており、道三亡き後濃姫が離縁された、亡くなったというような事実はなかった、という認識だったのではないかと推測できる。
『織田信雄分限帳』に「安土殿」という女性が、600貫文の知行を与えられているのが記載されており、女性としては信雄正室、岡崎殿に続き三番目に記載され、信長生母と推測される「大方殿様」よりも先に記載されている事、安土城の「安土」という土地を冠されている事から、織田家における地位の高さがうかがえ、信雄の亡き父、信長の正室にあたるのではないかとも考えられる。
また『氏郷記』『総見院殿追善記』などには本能寺の変直後、安土城から落ち延びた信長妻子の中に「御台所」「北の方」の記述が見られ、安土殿と同一人物とも推測できる。この「御台所」「北の方」が濃姫だったとすると、本能寺の変の翌日であることから考えて、変時に彼女が本能寺にいたとするのは時間的に無理がある。
『妙心寺史』には、天正11年6月2日(1583年)に信長公夫人主催で一周忌を執り行った記事があり、秀吉主催とは別の一周忌法会であるため、興雲院(お鍋の方)とは別人と推測され、「安土殿」である可能性が高い。「安土殿」が彼女であった場合、慶長17年7月9日(1612年7月26日)に78歳で逝去、「養華院殿要津妙玄大姉」という法名で大徳寺総見院に埋葬されている事となる。