火炎放射器
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火炎放射器(かえんほうしゃき、flamethrower)は、「炎」を投射する、もしくは「火がついた液体」を投射する武器/兵器、道具。
道具としては、農業や一般家庭などにおける雑草の駆除などに使用されるものがある。
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[編集] 軍用火炎放射器
[編集] 構造
一人で持ち運べる火炎放射器のうち、背中に背負うタイプのものをバックパック式と呼ぶ。
このバックパックは、2もしくは3本のシリンダーから構成される。 1本のシリンダーにはゲル化ガソリンなどの可燃性の液体が、もう1本には可燃性もしくは不燃性の圧搾ガスが充てんされている。 シリンダーが3本のものは、全体のバランスをとるために、外側の2本に可燃性液体、中央の1本にガスを配置する。 このガスは、可燃性液体をシリンダーにパイプでつながれた銃部に押し出す働きをする。
銃部は、小さな貯蔵器、バネ式の弁、点火システムから構成されている。 オペレータがトリガーを引くと弁が開き、ガスによって加圧された液体が点火システムを通って噴出する仕組みである。
点火システムには多くのバリエーションがあるが、最も初期の単純なタイプとしては電熱線のコイルが上げられる。ただしこのタイプのものでは、可燃性液体の流速が早すぎて着火に失敗するような事故も起きたようで、改良が続けられた。より複雑な構造を持ったものとしては、シリンダー内の可燃性ガスを(ガスライターのように)火種として用いるものなどもある。また、拳銃弾から弾丸を除き発火したガスを着火源とするものもある。これは厳冬の朝鮮からモンゴル、ロシアで確実に着火させるためのものである。
[編集] 効果
火炎放射器は、特にその存在を予期していない兵士に対して、非常に有効な兵器である。兵器としての単純な殺傷能力以上に、「不快な死を撒き散らす」というその特性が敵兵士に大きな心理的な衝撃を与える点が特徴である。
火炎放射器は「炎」というよりむしろ「燃える液体のジェット噴流」を作り出すため、塹壕やトーチカの内部のような見通しの効かない空間の壁や天井で『跳ねる』ように撒き散らすことができる。
だが、使用には燃料が必要ゆえに長時間の攻撃には向かず、射程が短く、敵側の小火器に対して脆弱であり、その殺傷力が裏目に出てかなり使いづらい武器とされている様である。
[編集] 歴史
中世の東ローマ帝国では「ギリシアの火(ギリシア火薬)」という、火炎放射器のような兵器が使用されていたが、国家機密とされていたため帝国の滅亡と共に失われてしまい、後世には伝わっていない。
現在に見るような火炎放射器を、史上初めて開発したのは、ドイツの技師リチャード・フィードラーだとされている。1901年、彼はドイツ軍に火炎放射器(Flammenwerfer)の最初のモデルを提出した。
フィードラーの火炎放射器は、高さ4フィート(1.2m)の単一のシリンダーからなる可搬式装置であった。シリンダーは水平に2分割され、下層には圧搾ガス、上層には可燃性の油が納められていた。レバーを押し下げるとガスが油を押し上げ、ゴム・チューブを通って単純な点火装置を内蔵した鋼のノズルから火炎流を噴出させる仕組みであった。
この兵器は、20ヤード(18m)の範囲で2分間、猛烈な煙を伴った炎の噴流を発生させた。欠点として、これが単発で、一回の発射ごとに燃料と発火装置を交換しなければならなかった点があげられる。
[編集] 第一次世界大戦
この可搬式据付型の装置は1911年まで採用されることは無かったが、その後ドイツ軍には12の専門部隊が作られた。第一次世界大戦においては1916年2月、ヴェルダンの戦いでフランス軍に対し一気に勝負を付けたい時に、敵陣地に12mまで迫って使われ、同年7月にHoogeでイギリス軍の掘った塹壕に対して用いられたが、それまでは、全く使われることはなかった。しかし一端使用されると、限定的ながらも印象的な成功を果たした。
ただし、火炎放射器のオペレータは非常に狙われやすく、特に火炎放射器自体に攻撃が加えられると炎上して周囲に致命的な結果をもたらすことも多かった。このためイギリス軍とフランス軍においては、システムの試験・検討はされたものの、この時点で採用されることはなかった。
ドイツ軍は第一次世界大戦の全期間を通じて、火炎放射器の配備を続け、最終的には1隊あたり平均6台の火炎放射器を装備した300以上の部隊が編成された。
[編集] 第二次世界大戦
火炎放射器は、第二次世界大戦において各国の軍隊で広く用いられた。
射程距離の短さと、基本的に徒歩であるオペレータの脆弱を解決するため、単独の兵士が運用できる、タンクを据え付けた背負い式ユニット(フレイムタンクと呼ばれた)の開発が検討され始めた。
ドイツ軍は、西ヨーロッパへの侵攻の初期にはかなり頻繁に火炎放射器を使用したが、報復攻撃が増大したため、すぐに使用が減少した。しかし東部戦線に関しては、焦土作戦の実施に伴い、終戦まで使用が続けられた。ドイツ軍の火炎放射器は、後ろや側面に加圧タンクをもった大きな単一の燃料タンクで構成されており、着用者の通常装備を邪魔しないように、背嚢の下部に装備できる構造になっていた。
イギリス軍の火炎放射器(Ack Pack)は、ドーナツ形の燃料タンクとその中央部に小さな球形の加圧ガスタンクが配されており、その形状から「救命浮き輪(lifebuoys)」の愛称で呼ばれた。
アメリカ軍は、火炎放射器が太平洋戦域で旧日本軍が構築した網の目のような塹壕を掃討するのに特に役立つことに気がついた。深い洞窟や塹壕においては、炎自体が敵兵にとどかなくても、爆発的な酸素消費、煙や排気ガスによる窒息効果で敵を掃討することができたからである。アメリカ軍は硫黄島の戦いや沖縄戦などで頻繁に使用した。アメリカ海兵隊では、ロンソン社製の火炎放射システムを装備したM4中戦車が登場するまで、M2-2型火炎放射器が継続して使用された。また、敵兵の立て篭もる洞窟や地下陣地をまず火炎放射器で焼き払い、その後に入り口を爆破する戦法をアメリカ海兵隊では「トーチランプ&栓抜き戦法(torchlamp&corkscrew)」と呼び、特に沖縄戦で多用した。
[編集] M4火炎放射戦車
- アメリカ軍のM4中戦車(シャーマン)には火炎放射器を搭載したタイプがいくつか作られ、グアム島や硫黄島、沖縄などの戦線に投入された。
- M4A2の車体右前面機銃を外してE5火炎放射器を搭載したもの。
- M4の車体機銃部にE4-5型火炎放射キットを装着したもの。
- M4の車体機銃手ハッチにE12R3火炎放射キットを装着したもの。
- M4A1・M4A3の主砲を外し、E12-7R1型火炎放射器を搭載したもの。
- M4の主砲を外し、POA-CWS-H1火炎放射器を搭載したもの。
[編集] その後の戦争
アメリカ海兵隊は、朝鮮戦争およびベトナム戦争においても火炎放射器を広く運用した。
[編集] 民生用火炎放射器
灯油やカセット式コンロなどに使用される液化天然ガスのボンベを燃料とし、数cmから数十cmの炎を噴射するものが市販されている。これは除草バーナーや草焼きバーナー、グラスバーナーなどと呼ばれ、庭や畑などの雑草や害虫を焼却するのに用いられる。
また冬季に大量の雪が降る国や地方では、火炎放射器を融雪に用いられることがある。日本においては、「三八豪雪(昭和38年1月豪雪(気象庁命名)」の際に災害派遣により出動した自衛隊が北陸各地で火炎放射器を用いて消雪活動を試みたが、短時間の火炎放射では降り積もった雪の表面を溶かすだけでほとんど消雪効果がなく、シャベル等を用いて直接除雪することに匹敵するほどの雪を溶かすには莫大な量の燃料を必要とすることになり、大きな成果はあげられなかった。
[編集] 関連項目
※英語版「flamethrower」(14:41, 29 May 2005)を参考に執筆