犬童頼兄
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犬童 頼兄(いんどう よりもり、永禄11年(1568年) - 明暦元年(1655年))は相良氏の家臣。犬童頼安の子。
[編集] 経歴
相良頼房の家老となり、朝鮮出兵にも副軍師として頼房とともに渡海し、その功績によって頼房から相良姓を与えられ、相良清兵衛頼兄となる。
1600年の関ケ原の戦いでも頼房とともに西軍についたが、西軍が9月15日の本戦で大敗すると、頼房に東軍に寝返るように進言し、相良氏の存続を成し遂げた。これらの功績から頼房に厚く信任を受けた頼兄は、筆頭家老として国政を任され、相良氏の人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられた。
頼房が死去した後は、相良頼寛に仕えたが、その頼寛とは折り合いが悪く、1640年、頼寛が「頼兄は専横の家臣である」と幕府に訴えたため、頼兄は幕命により津軽へ流刑とされてしまった。(相良清兵衛事件)
行政手腕に長けてはいたが、その実、横柄な態度が多かったことも確かだったようであり、言わば相良氏の石田三成とでも言うべきような存在であったといえるのではないのであろうか。