犬童頼安
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犬童 頼安(いんどう よりやす、大永元年(1521年) - 慶長11年(1606年))は相良氏の家臣。犬童重安の子で犬童頼兄の父。
1524年、犬童一族は相良長定の謀反に与したため、一族全て殺されたが、この頼安はそのとき、わずか4歳という幼少であったため、出家することで助命された。出家して伝心と名乗った頼安は1545年、復讐を果たさんと相良治頼に与して相良家の本家と戦うが、敗北して逃亡した。
1556年、帰参を許されて相良氏の家臣となり、1559年からの島津氏との戦いで大いに軍功を立てて武勇の士として名を挙げた。1581年には島津軍に水俣城を攻められた。このときの有名な逸話として、城を守っていた頼安は敵将・新納忠元と連歌の応酬をしながら争ったという。武勇だけではなく、教養もあったということであろう。
相良義陽の死後は相良頼房を補佐し、主家の存続に尽力した。1606年に頼安が死んだとき、七人の家臣が殉死しているのは、頼安が如何に人望があったかということをうかがわせるものである。