狄仁傑
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狄 仁傑(てき じんけつ, 630年(貞観4年) - 700年(久視元年))は中国唐代の政治家。高宗・武則天に仕えた。唐代で太宗の時代に続いて安定していたといわれる武則天の治世において最も信頼され、長年に渡って宰相を務めた。
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[編集] 略歴
[編集] 昭陵の木
画家としても高名な閻立本が河南の汴州を視察したときに、その地方の役人であった狄仁傑が目に止まり、その推薦によって都督府法曹に抜擢され、やがて朝廷に召されて大理丞となった。
あるとき左威衛大将軍の権善才と左監門中郎将の范懐義という二人の重臣が、家を増築するために依頼した樵夫が誤って昭陵(太宗の墓地)の木を伐ってしまった。 高宗はこの二人を大逆罪として処刑する意思を表明し、群臣もこれに賛同したが、一人末席に座っていた狄仁傑のみがこれに反対した。曰く、「両名を死罪には出来ません。陵域の木を切る者を死罪に処すとの法律がないからです。」高宗は怒り、狄仁傑に対して怒声を浴びせたが、高宗の傍らにいた武則天は逆にこれを喜び、結局重臣二人は死罪を免れ、流刑に決まった。その直後、狄仁傑は侍御史という要職に任命された。
[編集] 武則天の時代
狄仁傑は武則天が皇帝となった後も、恐れることなく自説を直言したので武則天も彼を非常に信頼した。後年、武則天の甥の二人の者が太子の座を狙って色々な画策をし、武則天もその気になりかけたとき、狄仁傑は従容としてこれを諫めた。
「昔、太宗は風雨にさらされ、矢玉をおかし、自ら非常な苦難を乗り越えて、天下を平定し、これを子孫に伝えました。また高宗は二人の皇子を陛下にお託しになったのです。しかるに今、皇位を他の血族に移し変えようとなされるのは、天意ではないと存じます。かつ、叔母と甥の間柄と、母子の間柄とは、どちらが親しみ深いと考えられますか。陛下が御子をお立てになられましたなら、陛下崩御ののち、太廟に合祀されて、永く御子孫からの御供物をお受けになることが出来ますが、甥をお立てになりましたなら、甥が天子となって、その叔母を太廟に合祀した者のあることを聞いたことがございません」
武則天はこの諫言によって甥を退け、前に中宗として短期間帝位についた後に廃された、高宗の子の廬陵王李顕を召還し、改めて皇太子として立てた。これによって唐王朝が元に戻る基礎づくりが出来上がったのであった。
狄仁傑が亡くなった時は、武則天も涙を流して悲しんだという。
狄仁傑は多くの優れた人材を推挙したことでも知られる。彼によって登用された人々はのちに開元の治と呼ばれる玄宗の時代の唐の絶頂期を演出する原動力となった。また宰相を務めた張柬之は狄仁傑によって推挙され、のちに武則天の力が弱まったときに退位を迫り、権力を唐王朝の手に引き戻したことで知られる。
[編集] 狄仁傑を主人公とした文芸作品
- 『ディー判事シリーズ』ロバート・ファン・ヒューリック著(三省堂 1989年)
- 『中国黄金殺人事件』大室幹雄訳 ISBN 4385348014
- 『中国鉄釘殺人事件』松平いを子訳 ISBN 4385348022
- 『中国湖水殺人事件』大室幹雄訳 ISBN 4385348030
- 『中国梵鐘殺人事件』松平いを子訳 ISBN 4385348049