太宗 (唐)
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姓名 | 李世民 |
年号 | 貞観 627年 - 649年 |
廟号 | 太宗 |
字 | - |
諡号 | 文武大聖大広孝皇帝 |
生没年 | 598年-649年 |
在位 | 626年-649年 |
父 | 李淵(第2子) |
母 | 太穆皇后竇氏 |
太宗(たいそう 598年 - 649年、在位626年 - 649年)は、中国唐朝の二代目皇帝。姓は李。諱は世民(せいみん)。高祖李淵の次子。兄の李建成を殺害し皇帝になった。唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君と称えられる。
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[編集] 略歴
[編集] 即位前
4歳の頃、父・李淵をある書生が訪れた。このとき、この書生は李世民を見て、「竜鳳之姿天日之表其年几冠必能済世安民」(「竜や鳳凰のようだ。成人したら、世の中を治めて民衆を安心させるだろう」(『新唐書』本紀第二による)と言った。そのため、世民という諱がついたというエピソードがある。
李世民は非常に優れた武将であり、唐王朝創設の途上での外敵の多くを李世民が滅ぼした。長男の李建成は太子であり、父が急死した場合、即座に即位する必要があるため常に父の傍についていなくてはならず、自然李世民に比べれば戦功が少なくならざるを得なかった。
武徳元年(618年)、秦王に封ぜられ、尚書令となった。ちなみに尚書令はこの後、「皇帝と同じ地位に臣下が上るのは恐れ多い」と言うことで唐一代を通じて欠番となった。
戦功に比して報われる事が少ないと李世民とその側近達は不満を覚え、それを宥める為に高祖は天策上将(てんさくじょうしょう)と言う称号を李世民に与え、また弘義宮と言う宮殿を新たに築き、これを与えた。
しかしその後も世民側の攻勢は止まず、これに建成も対抗して、高祖に訴えて世民側の房玄齢と杜如晦の二人の謀将を世民から遠ざけさせた。しかし世民は二人と密かに連絡を取って計画を練り、626年6月、長安宮廷の玄武門で兄と弟の李元吉を遂に殺害した。これを玄武門の変と呼ぶ。高祖はこれを見て8月に譲位した。
[編集] 貞観の治
太宗は即位早々、突厥による侵攻を受ける。『旧唐書』によれば、この時太宗は怒り、六騎を引き連れただけで渭水に布陣した突厥軍の前に立ち突厥の協定違反を責めた。その後ろに慌てて太宗を追いかけてきた部下達が大軍を引き連れていたので突厥は恐れをなして引き上げていったと言う。
627年元号を貞観と改める。そして房玄齢・杜如誨の二人を左右に政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行った。軍事においても兵の訓練を自ら視察し、良い者には褒賞を与えて回ったため唐軍は強力になった。
これらの施策により、隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まった。
629年(貞観三年)、その国力を背景に突厥討伐を行う。軍事面では李勣・李靖の二人を登用し、630年には突厥の頡利可汗を捕虜にした。これによって突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは、長安に集まり、太宗に天可汗の称号を奉った。天可汗という称号は、北方遊牧民族の君主である可汗より更に上位の君主を意味する。ここに、唐の皇帝は、中華の天子であり、また北方民族の首長としての地位も得ることとなった。更に644年(貞観十四年)、西域の高昌国を討ちここを直轄領とする。
文化的にもそれまで纏められていた『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』の正史を編纂させ、特に『晋書』の王羲之伝では自ら筆を執って注釈を行った。また645年には玄奘がインドより仏経典を持ち帰っており、太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせた。
このような成功により、太宗の治世は貞観の治と呼ばれ、理想の政治の時代と後世にたたえられた。『旧唐書』には「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれている。後世、太宗と臣下たちの問答が『貞観政要』として纏められた。
[編集] 晩年
しかし、晩年になると立太子問題に迷いが生じ、最初に皇太子に立てていたのは長子・李承乾であったが、太宗は魏王・李泰を可愛がっていた。このことの不満から皇太子は次第に奇行を見せるようになり、最後は謀反を図って誅殺され、皇后の兄である長孫無忌の意向により、最も凡庸な李治(後の高宗)を皇太子としたが、この選択が後の武則天の台頭に繋がる。
649年、死去。
生前の太宗は、自身も能筆家であり、臣下にも初唐の楷書を完成させた書の大家が多く、書聖・王羲之の真筆に対して異常なまでの執心ぶりを見せていたことでも著名である。王羲之の子孫にあたる智永という僧が持っていた「蘭亭序」の真筆といわれるものを手に入れ、それを自らの墓(昭陵)に納めさせたと言われている。
[編集] 歴史的評価
後世、名君の中の名君と称えられた太宗であるが、その像にはかなりの粉飾が見られる。『旧唐書』の編纂にあたり参考にした太宗実録の編修をした許敬宗という人物は賄賂を貰って記録を捻じ曲げる事が多かったと別の記録に書かれている。
太宗は自らの言行録である『起居注』を褚遂良に対して頼み込んで見せてもらおうとしたが、見せてもらえなかった。そのとき、君主の命で本の内容が変更されることがあってはなりません、と断られたという。
死後すぐに、文皇帝(ぶんこうてい)と諡される。上元元年(674年)、高宗により、諡号が、文武聖皇帝(ぶんぶせいこうてい)に変えられる。さらに、天宝8年(749年)、玄宗により、諡号が、文武大聖皇帝(ぶんぶだいせいこうてい)に変えられる。また、玄宗が、天宝13年(754年)に増諡して、諡号は最終的に文武大聖大広孝皇帝(ぶんぶだいせいだいこうこうこうてい)となった。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 長孫皇后
- 韋貴妃
- 徐賢妃
- 楊妃(隋煬帝女)
- 陰妃
- 燕妃
- 楊妃
- 王氏
- 楊氏(李元吉之妻)
- 武才人 (武則天)
[編集] 子
- 常山王李承乾(廃太子)
- 楚王李寬
- 呉王李恪(鬱林王)
- 魏王李泰
- 濮王李祐
- 蜀王李愔
- 蒋王李惲
- 越王李貞
- 晋王李治(高宗)
- 紀王李慎
- 江殤王李囂
- 代王李簡
- 趙王李福
- 曹王李明
[編集] 女
- 襄城公主
- 汝南公主
- 南平公主
- 遂安公主
- 長楽公主
- 予章公主
- 比景公主
- 普安公主
- 東陽公主
- 臨川公主
- 清河公主李敬
- 蘭陵公主李淑
- 晋安公主
- 安康公主
- 新興公主
- 城陽公主
- 合浦公主
- 金山公主
- 晋陽公主李明達
- 常山公主
- 新城公主
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