王朗
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王朗(おうろう、生年不詳-228年)は、中国、後漢末から三国時代の政治家。元の名は厳。字は景興。子には王粛らがいる。司馬炎の外曾祖父に当たる(王朗の孫娘の王元姫が司馬昭に嫁いで、司馬炎と司馬攸らを産んだ)。
徐州東海郡の人。最初は徐州刺史の陶謙に仕えていたが、時の皇帝に奉った上奏文を高く評価されて、会稽の太守に任命された。孫策が会稽に攻めて来ると、皇帝から任された城を守るべきだ考え、逃亡を勧める虞翻の意見を退け防戦するが、大敗し捕らえられた。
捕らえられた王朗は孫策に降伏しなかったが、教養深く謙虚な人物であっため処刑せずに許された。一族を抱え困窮したが、道義に基づく行為は目立っていた。
後に曹操に召し出されて重職を歴任し、曹丕が帝位につくと司空に任じられた。明帝の時代に司徒となる。 王朗は政務に当たって寛容を旨とし、民の負担を軽くして人口を増やすことや、王宮の経費節減を行うことなどを上奏している。
三国志演義においては228年、76歳の高齢を押して出陣し、諸葛亮に論戦を挑んで敗北、そのショックから死去しているが、実際は同年に亡くなっているものの、天寿を全うしている(明帝紀に、同年11月に死去との記事あり)。諡号は成侯。
ただし、実際に諸葛亮に降伏勧告の手紙を送ったが、無視されたことはあった。また、旧知の許靖にも同様の手紙を送ったが、そのころ許靖が亡くなっており、やはり返事は出されなかったようである。なお、正史には、享年は記されていない。