生駒吉乃
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生駒 吉乃(いこま きつの、1528年(享禄元年)? - 1566年5月31日(永禄9年5月13日))は、織田信長の側室で信忠・信雄・徳姫(見星院)の母といわれてきたが、最近の検証から事実とするには矛盾が多い。
馬借を家業としていた生駒家宗の娘。名は「前野家文書」にては吉乃とされるが、これは創作と思われ、生駒家に吉乃の名は伝わっていない。伝わっているのは「類」であり、そちらが正式な名であると推察される。最初は土田弥平次に嫁ぐが、1556年、夫の弥平次が吉乃二十九歳の時に戦死したため、実家の生駒家に戻っていたという。
その後、信長に見初められ、側室になったといわれている。1557年には信忠を、1558年には信雄を、1559年には徳姫を産んだといわれるが、当時の一次史料から確実に確認できるのは信雄だけである。
後年織田家の主流が信雄の家系になって以降の史料には、信忠生母が信雄と同じであるとの記述が散見されるようになる。1566年5月13日、三十九歳で死去した。 しかし、吉乃は信長より四歳年下で、二十九歳で死去したという説もある。おそらくこれは、「前野家文書」中の武功夜話拾遺に記載されている「享年廿拾九歳」を二十九歳と読み間違えたものと思われる。通常これは廿が二十の意味を持つ為、「二十、十、九歳」となり、三十九歳の異記である。二十九歳であるならば弐拾九歳、又は廿九歳と書くのが通常。
正室の濃姫が子供を産む事がなかったため、吉乃の産んだ信忠は嫡子となり、彼女は彼を含め、信長の子を三人も産んでいるため、信長の正室として、あるいはそれに近い扱いを受けていたのではないかという説がある。
上記の説の根拠とされる「前野家文書」において、吉乃が徳姫出産後の産褥で重症に陥っているのを信長が知らず、完成していた小牧城の御台御殿(主は小牧殿と記載されている、正室濃姫の事と推測される)に移るようにと生駒家に命じた事で、吉乃兄の八右衛門が信長に吉乃の移動が難しいと相談に行き、初めて信長はその病を知る、そして信長自ら生駒屋敷に赴き、輿を差し向け、吉乃が小牧御殿に移り住んだ後、信長は足しげく見舞うようになったなどと記述されているが、「前野家文書」においては信長が病を知らなかった期間は言明されていない。史実から計算するとこの期間は6年となる。6年もの間信長が吉乃の病を知らないという事から、その間疎遠になっていた事が読み取れる。ただし、「前野家文書」では、吉乃死亡時の1566年に徳姫が五歳であったとしている。しかしながら、吉乃は小牧御殿に移った翌年に死亡とされているので、「前野家文書」において信長は、4年間吉乃の病を知らなかった事となる。
また、御台御殿に座敷を与えられた時、初めて嫡男信忠の生母として、側室の披露を受けたことも記述されている。それまでは「前野家文書」においても非公式の愛妾という立場であった事が分かる。
以上の事から考えて、正室格の待遇を受けていたという「前野家文書」を起源とする説は、「前野家文書」の記述からも矛盾している事は類推される。
「前野家文書」(武功夜話拾遺)には「先に清須に御移りは申四月日、小牧新御殿小牧殿の事」という記述があり、正室濃姫が吉乃より先に信長と同居していた事が記されている。ただし「申四月日」をそのまま永禄3申年(1560年)4月と考えると、信長は天文23年(1554年)に那古野城から清洲城に移っており、時期的に疑問が残る(あるいは単純に信長が清洲に移った「さる1554年」4月の誤記か)。武功夜話拾遺においては、濃姫は弘治2年(1556年)3月に輿入れした事になっているが(実際は天文18年2月輿入れ)、当時那古野城には留守居役の林秀貞がおり、8月には林秀貞が信長に敵対した稲生の戦いが起きていることもあり、那古野城に嫁ぐという事も考えにくい。
また、吉乃の夫土田弥平次は弘治2年9月に亡くなったとされるが、「前野家文書」でも同様の記述が見受けられるものの、別の箇所には「天文20年(1551年)の濃姫輿入れよりも早い時期(武功夜話記載)」や、「弘治2年の濃姫輿入れ前の弘治元年(1555年)正月頃(武功夜話拾遺記載)」などに吉乃は男子(信忠)を生んだと記述されており(信忠の誕生は実際には弘治3年)、濃姫の輿入れよりも信長の吉乃への寵愛が早く、男子出産も早かったとしたかったものと思われる。
吉乃が弘治2年9月以降に、信長の側室になったとすると、信忠の誕生は考えうる限り最短で弘治3年8月頃となり、更に信雄を身籠るのが信忠出産から最短であったとしても、永禄元年5月頃の誕生となる。これは、信雄の誕生が永禄元年3月末と伝わっている事と矛盾が生じる。
ただし、吉乃の夫が土田弥平次であるというのは、「前野家文書」にのみ記述されており、生駒家系図、土田家系図のどちらにも、両人の婚姻の記載はないことから、土田弥平次が夫であるということが「前野家文書」の創作であったとするならば、側室となった時期は弘治2年9月以降とする必要はなくなり、矛盾は解決される。
信忠は正室濃姫の養子となって、嫡子としての資格を得たことは、「勢州軍記」「余吾庄合戦覚書」に記載されていることから、当時の奥の慣習から考えれば、正室の管理下である奥において、信長の胤である事がはっきりしている状態で、信忠が誕生したと推測できる。なお、信忠、信雄は「寛政重修諸家譜」では清洲城で誕生した事が記されている。これは上記の、正室の管理下である奥での信忠誕生説を補完しうるものである。
しかしながら「前野家文書」では、吉乃自身が清洲城に入ったことは記されておらず、三子を生駒屋敷で生み、小牧城完成後数年の後に増設された「前野家文書」以外に存在を確認できない御台御殿に、室(側室)として移り住んだ事になっている。生駒屋敷を、史実や逸話などで有名な各種エピソードに絡めるため、信長のほうから愛妾のもとに足しげく通っていた事にしたかった「前野家文書」作者の意図による創作と考えることもできる。
これらの事を考え合わせると、「前野家文書」における吉乃に関する記述そのものは非常にちぐはぐであり著しく信憑性に欠けると言わざるを得ない。
また、信雄が清洲城にて誕生したのであれば、熱田で誕生した信孝が出産報告が遅れた事によって三男となったという「勢州軍記」「余吾庄合戦覚書」のエピソードは、より妥当なものとはなる。
織田家雑録には「信忠・信雄・五徳の3人が鼎の足になって織田家を支えて欲しいと五徳と名付けた」とありながら、五徳を信忠の姉と表記してあるなど史料にも矛盾がみられ、五徳が吉乃腹であるかどうかは不詳である。加賀藩の本藩歴譜では前田利長室となった永姫の生母を「生駒」としており、永姫は金沢に母氏の旧跡を追崇するために金沢久昌寺を建立しているなど、永姫は生駒が生母であると推測できる。そうなると従来の信忠・信雄・五徳の生母が生駒であり、五徳出産後に肥立ちが悪く体調を崩し、その後出家して亡くなったという従来の説にも生駒の没年等にも疑問が生じることになる。
当時は、家の主流になった血筋に都合良く系図を書き換えることはごく普通に行われていたことであるため、織田家嫡流の信忠と、徳川家嫡男正室だった五徳の両名を、主流となった信雄の家系が、信雄と同腹としたとしても不思議ではない。その事をふまえ、生駒の足跡を示す史料の根本的な検証の見直しが必要とされるであろう。
現在、信長の側室生駒氏に関するエピソードの多くは「前野家文書」の記述を根拠にしている。同文書は偽文書の可能性が高く、信憑性は低い。現在のところ、名前、生没年など、ほとんどは不明と言わざるを得ない。確定できるのは、信雄の生母であり、その出生時に存命していたことくらいである。
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