甲州金
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甲州金(こうしゅうきん)は、日本で初めて体系的に整備された貨幣制度およびそれに用いられた金貨である。
戦国時代に武田氏の領国甲斐国などで使われ始め、文政年間まで鋳造されていた。武田晴信(信玄)によって制度が整えられたとも言われており、大小切税法(だいしょうぎりぜいほう)、甲州桝(こうしゅうます)と併せて甲州三法と呼ばれている。
金山経営は、新田開発とともに戦国大名の軍事行動の基盤となる富国強兵政策であるが、甲斐においても最盛期を迎えていたと言われる大菩薩嶺の黒川金山(旧塩山市鶏冠山、現甲州市)や西八代郡の湯之奥金山や中山金山、北巨摩郡の御座石金山、南巨摩郡の保金山などに代表される本国の金山に加え、諏訪郡の金鶏金山や駿河の富士金山や安部金山など、直轄領拡大で接収された他国の金山で産出され、晴信時代の対外的軍事行動を支え、あるいは金鉱の衰えと勝頼時代の衰退を関係付ける論説も存在する。金山衆は武田氏とも知行関係が不明瞭であり直接経営に疑問視もされているが、近年では金山衆は棟別役や諸役の免除など保護を受け、金鉱採掘のほか農業や商業を営み、採掘技術を活かし合戦における坑道掘りなどの軍役や普請事業にも従事していた集団であることが明らかにされている。武田氏滅亡後には、金山衆は徳川家康により保護されている。
採掘された金は灰吹法により碁石形に精錬され、後には形態も多様化し産地を示すようになった。金銀は戦費の補填のほか、中央権門や有力寺社、他国への贈答としても使用された。
[編集] 制度としての甲州金
戦国期には、各地の大名が金貨を鋳造したが、それらは重さで価値を計る量秤(りょうしょう)貨幣であった。それに対して甲州金は、金貨に打刻された額面で価値が決まる計数貨幣である。
甲州金では1両(りょう)=4分(ぶ)=16朱(しゅ)=64糸目(いとめ)という4進法が採用されていた。 用いられた貨幣の種類は、以下の通り
- 両
- 分
- 二朱
- 朱
- 朱中(1/2朱)
- 糸目
- 子糸目(1/2糸目)
- 子糸目中(1/2子糸目)
この4進法の体系は江戸幕府に引き継がれる。
[編集] 金貨としての甲州金
甲州金は、武田氏の作った地方通貨であったが、江戸時代になってからも文政年間まで甲府の金座で鋳造されていた。
このため、おおよそ江戸時代以前に鋳造されたものを古甲金と呼び、それ以後のものは新甲金と呼んで区別する。
鋳造された金貨の種類
- 露一両(つゆいちりょう)
- 駒一両(こまいちりょう)
- 甲安金(こうやすきん)
- 甲重金(こうしげきん)
- 甲定金(こうさだきん)
- 甲安今吹金(こうやすいまぶききん)
など