甲陽鎮撫隊
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甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)は、慶応四年に新選組が旧幕府より甲州鎮撫を命ぜられた後の名称である。
鳥羽・伏見の戦い以来、将軍から全権を委任されて事態の収拾を図っていた陸軍軍事総裁勝安芳は、官軍が江戸に入る前に慶応4年3月、新選組近藤勇に甲州鎮撫を命じた。その際、正式な幕府軍という意味で新選組は甲陽鎮撫隊と改めて甲州に赴いた。その際、近藤勇は大久保大和守剛、土方歳三は内藤隼人と改称した。 結局、この甲陽鎮撫隊は目的地とした甲府まで行き着かずして東山道軍に占拠され、手前の勝沼(山梨県甲州市勝沼町)で交戦したものの1日で壊滅した(甲州勝沼の戦い)。
[編集] 隊名について
当時の文献には甲陽鎮撫隊との名称を用いた文献は存在しない。大正年間に佐藤俊宣が記した今昔備忘記に初出が確認され、それを参考資料として子母沢寛が新選組始末記で発表したことから定説化した。ただし、この文書の著者である佐藤彦五郎の長男、佐藤俊宣自身がこの隊に関与しており、一概に隊名の批判はできない。