甲州勝沼の戦い
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甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい、慶応4年3月6日(グレゴリオ暦1868年3月29日))は、戊辰戦争における戦闘の一つである。柏尾の戦い、勝沼・柏尾の戦い、甲州戦争、甲州柏尾戦争とも呼ばれる。
[編集] 概要
新選組は会津藩指揮下で京都市街の治安維持などに従事していたが、慶応4年1月、旧幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦い、淀千両松の戦いで新政府軍と戦って敗れ、江戸へ移った。新政府軍は東海道・東山道・北陸道に別れ、江戸へ向けて進軍した。
新選組局長の近藤勇は、抗戦派と恭順派が対立する江戸城において勝海舟と会い、天領である甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう出陣を命じられた(一説には、江戸開城を控えた勝海舟が、暴発の恐れのある近藤らを江戸から遠ざけたとも言われる)。新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変名して、3月1日に江戸を出発し甲府へ向かった。
近藤は混成部隊を指揮するため、行軍中に大名旅行のように振舞い、さらに天候の悪化なども重なり時間を空費する(沖田総司は途中で江戸に戻った)。その間に、土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが先鋒総督府参謀として、新政府軍3,000を率いて甲府城に入城してしまう。
甲陽鎮撫隊は勝沼(現・甲州市)まで前進したが、300いた兵は恐れをなして次々脱走し、121まで減ってしまった。近藤は会津の侍がこちらへ向かっているといい、なんとか脱走兵を防いだ。土方は神奈川方面へ赴き旗本の間で結成されていた菜葉隊に援助を頼むが黙殺される。
3月6日、甲陽鎮撫隊と新政府軍との間で戦闘が始まった。戦況は鎮撫隊側が不利で、新政府軍からの砲撃で大砲は破壊された。会津の援軍が虚報だとわかると、近藤、永倉新八、原田左之助らの説得も空しく、兵は逃亡した。甲陽鎮撫隊は八王子へ退却した後に解散し、江戸へ敗走した。近藤らはその途中土方と合流した。
新政府軍は江戸城の無血開城と上野戦争で江戸を確保し、戊辰戦争の戦場は宇都宮、北陸へと移った。現在の甲州街道沿いには古戦場跡や墓所などが残されている。
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