留岡幸助
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留岡幸助(とめおか こうすけ、1864年3月4日 - 1934年2月5日)は、日本の社会福祉の先駆者で、感化院(彼自身は、この感化院という呼称を嫌った。現在の児童自立支援施設のこと)教育の実践家。北海道家庭学校の創始者として知られる。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、山室軍平とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。
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[編集] 生涯
[編集] 幼少のころ
岡山県高梁市に生まれる。吉田万吉、トメの子として生まれ、生後まもなく、留岡家の養子となる。留岡家は、米屋を営んでいた。子供同士の喧嘩で武家の子供を怪我させ、商いに支障が出て、養父から厳しい折檻を受け、家出。高梁のキリスト教会に逃げ込み、やがて、18歳で洗礼を受ける。
[編集] 青年期
徴兵検査は不合格、1885年同志社英学校別科神学科邦語神学課程に入学。新島襄の教えを受ける。京都での学生時代、徳富蘆花と交友を結ぶ。彼の小説『黒い眼と茶色い眼』の中に登場する「邦語神学の富岡君」は留岡がモデルだといわれる。 1888年卒業後、福知山で教会牧師となる。
[編集] 教誨師時代
1891年北海道、市来知(いちきしり)の空知集治監の教誨師となる。1894年-1897年アメリカに留学。コンコルド感化監獄で実習、その後、エルマイラ感化監獄ではブロックウェーに直接指導を受ける。
[編集] 児童の自立支援のための福祉活動
帰国後、国内でも感化院の設立のために奔走する。1899年、ようやく資金の目処もつき、巣鴨に土地を購入し、家庭学校を設立。
- 感化院としては、これ以前に1885年に高瀬真卿の東京感化院、その翌年1886年の千葉県仏教各宗寺院連合の千葉感化院がある。前者は神道、後者は仏教精神によるもの。
1914年、北海道上湧別村字社名淵(かみゆうべつむらあざしゃなぶち)に国有地の払い下げを受けて、家庭学校の分校と農場を開設。1922年には神奈川の茅ヶ崎にも家庭学校の分校を作るがこちらはまもなく関東大震災で建物が倒壊して、1933年閉校となる。留岡はこの間、北海道と巣鴨を行き来しながら、二つの学校を指導監督する。
[編集] 晩年
1931年巣鴨の家庭学校本校で、奉教五十年を祝う感謝の会が開かれ、彼は徳富蘇峰と会談中に脳溢血で倒れる。1933年にきく子夫人が死去。留岡は家庭学校の名誉校長に就任し、現場から退く。二代目の校長に就任したのは、牧野虎次である。1934年2月5日東京の祖師谷の自宅で死去。北海道家庭学校は、1968年社会福祉法人の認可を受け、東京の家庭学校から分離、独立した施設となった。
[編集] 参考文献
- 同志社大学人文研究所編『留岡幸助著作集』全5巻 同朋舎 1978年
- 高瀬義夫『一路白頭ニ到ル 留岡幸助の生涯』岩波書店 1982年
[編集] 関連項目
- 矯正教育
- 非行少年