白居易
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- ※能の演目(脇能物の老神物)は白楽天 (能)を参照。
白居易(はく きょい、男性、772年(大暦7年) - 846年(会昌6年))は、中唐の詩人。字は楽天。号は香山。弟に白行簡がいる。
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[編集] 略歴
772年、鄭州新鄭県に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5~6歳で詩を作ることができ、9歳で声律を覚えたという。
彼の家系は地方官を輩出するくらいの低い家柄であったが、安禄山の乱以後の政治改革により低い家系でも取り立てられやすくなったおかげもあり、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。35歳で盩厔県(ちゅうちつけん、陝西省)の尉になり、翰林学士、左拾遺にまで上りつめた。このころ、『新楽府』を完成させた。
その後、左遷され地方の長官を歴任。任期を終え中央へ戻り838年刑部侍郎、836年太子少傅、842年刑部尚書となり引退。74歳のとき『白氏文集』を完成させ、75歳にしてその生涯を閉じる。
[編集] 詩風
彼は「諷喩詩(風諭詩)」と呼ばれる政治や社会の実相を批判・賞賛した詩が、特に高い評価を得ている。他にも「長恨歌」「琵琶行」などの閑適詩・感傷詩がある。無二の親友とされる元稹や劉禹錫との詩の応酬が有名である。
[編集] 日本への影響
白居易の詩は平安文学に大きな影響を与えた。日本では風諭詩よりも閑適詩・感傷詩の方がもてはやされた。『枕草子』にも『白氏文集』が登場しているように、当時の貴族達にもてはやされたことがわかる。『源氏物語』も白居易の『長恨歌』が影響を及ぼしている。
[編集] 禅僧との交流
白居易は仏教徒としても著名であり、晩年は龍門の香山寺に住み、「香山居士」と号した。また、馬祖道一門下の仏光如満や興善惟寛らの禅僧と交流があった。惟寛や、浄衆宗に属する神照の墓碑を書いたのは、白居易である。
『景徳傳燈録』巻10では、白居易を如満の法嗣としている。その他、巻7には惟寛との問答を載せ、巻4では、人口に膾炙している牛頭宗の鳥窠道林(741年 - 824年)との『七仏通誡偈』に関する問答が見られる。但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない。