漢詩
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漢詩(かんし)とは、中国の伝統的な詩。韻文における文体の一つ。狭義には後漢時代に確立した中国の国家芸術としての詩のこと。
目次 |
[編集] 漢詩の歴史
歴史や宗教哲学のものを除けば韻文が中心だった中国文学の歴史の中で、五経のひとつとして中国最古の詩編『詩経』が生まれた。『詩経』は四言詩を基本とする。
それから200年ほど後、楚の国で『楚辞』が生まれ、漢の時代にその系統を汲む賦が栄えたが、これは詩とは別系統の文体とされる。しかし、その形式は後に詩の形式に大きな影響を与えた。
前漢の時、民間の歌謡を収集する楽府という役所が設けられ、そこで集められた歌謡、あるいはそれ以後の歌謡は「楽府」(がふ)と呼ばれた。楽府は詩に楽曲が伴ったものであったが、やがてその楽曲は失われ、楽辞と題のみが伝えられた。楽府では句の長短が不揃いのものがあり、これは雑言詩と呼ばれる。また前漢の民間歌謡から一句が五音にそろえられた五言詩が生まれ、後漢になると文人が五言詩を作り始めた。五言詩はその後数百年にわたり漢詩の中心になった。三国時代の魏の武帝曹操、文帝曹丕、曹植(192年 - 232年)親子の三曹(特に曹操)が国家芸術としての漢詩を確立した。同時代の阮籍(210年 - 263年)らも有名である。
茶などの文化が発展した南北朝時代には、陶淵明(365年 - 427年)が活躍した。
唐の時代に入ると詩は宮廷を離れ、李白(701年 - 762年)、杜甫(712年 - 770年)、王維らによる詩の黄金期が築かれた。従来の古詩に絶句・律詩といった近体詩が加わった。8世紀後半には白居易(白楽天)の活躍が見られた。唐代の詩のことを唐詩と呼ぶ。
[編集] 日本の漢詩
漢詩は中国文学の中で生まれたが、中華文明の伝来に伴い日本でも作られるようになった。
751年には日本におけるごく初期の漢詩集として『懐風藻』が編纂された。9世紀には、814年『凌雲集』818年『文華秀麗集』827年『経国集』と三つの勅撰集が編まれた。その後905年に『古今和歌集』が編纂されるまで、和歌は日本文学の中で漢詩と対等な位置を得られなかった。平安時代の物語などでは、「詩」と単に書けば漢詩を意味し、「からうた」という訓がつけられた。その後も漢詩文の影響は強く、『和漢朗詠集』にも数多く作品が収められている白居易は特に好まれた。平安期の代表詩人には、空海、島田忠臣、菅原道真らがいる。
その後、鎌倉・室町期には、禅林に「五山文学」が花開いた。代表詩人には義堂周信、絶海中津があり、一休宗純には『狂雲集』がある。
日本漢詩の頂点は、江戸期から明治初期にかけての時期であり、朱子学を背景に「文人」と呼ばれる詩人たちを多く輩出した。江戸前期の石川丈山、元政(日政)らの後、江戸中期には荻生徂徠の門人たちが派手な唐詩風で活躍し、江戸後期には菅茶山らの落ち着いた宋詩風が愛された。また、頼山陽の詩は今日も広く詩吟として愛吟されている。幕末には島津久光や伊達宗賢などが名人として知られている。20世紀以降は急速に衰退したが、夏目漱石や森鴎外、中島敦ら漢学教育を受けた文化人は漢詩をたしなんだ。現在でも漢詩創作の愛好家は存在している。また、みずからはつくらないのものの、詩吟や書道の世界では、漢詩はよむもの・みるものとして基礎的な教養の一部となっている。また、学校教育でも、漢詩にふれることが多い。
[編集] 漢詩の形式
漢詩は古体詩と近体詩に大分される。古体詩は唐以前に作られた漢詩の全てと唐以後に作られた古い形式の漢詩を言う。古体詩には明確な定型がなく句法や平仄、韻律は自由である。他方近体詩は唐以後に定められた新しいスタイルに則って詠まれた漢詩で、句法や平仄、韻律に厳格なルールが存在する。句数・1句の字数から五言絶句・六言絶句・七言絶句・五言律詩・七言律詩・五言排律・七言排律に分類される。
[編集] 朝鮮、越南(ヴェトナム)、琉球の漢詩
朝鮮、ヴェトナム(越南)、琉球でも日本同様中華文明の伝来と共に漢詩が作られた。 しかし近代に至り、朝鮮、ヴェトナムで漢字が廃止されたため漢詩文学の伝統は大きな危機にさらされている。