白山の戦い
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白山の戦い(チェコ語:Bitva na Bílé hoře, 独語:Schlacht am Weißen Berg, 1620年11月8日)は、ボヘミア(現在のチェコ共和国)の首都プラハ近郊の山、白山(チェコ語名ビーラー・ホラ Bílá hora)でのハプスブルク軍勢力とボヘミアのプロテスタント貴族との間で勃発した戦闘である。
[編集] 背景
1617年、ボヘミアを支配していたハプスブルク家は、熱烈なカトリック教徒で異教徒迫害を行うフェルディナント(後の神聖ローマ帝国のフェルディナント2世)をボヘミア王に即位させた。これに反対するボヘミアのプロテスタント貴族は王を認めず、1618年には、国王の使者三名がプラハ城を襲った民衆によって窓から投げ落とされる事件が起こった(第二次プラハ窓外投擲事件)。
事件後、ボヘミアのプロテスタント貴族は、多数のカトリックの聖職者や関係者(?)を追放し、新教徒であるフリードリヒ5世をボヘミア王に迎え、神聖ローマ帝国から離反する動きを見せた。ハプスブルク家は、この事件を新教徒の反乱とみなし、傭兵による軍を派遣して鎮圧しようとした。
[編集] 結果
ボヘミアのプロテスタント貴族は、ドイツやトランシルヴァニアのプロテスタント貴族に対し援助を求めたが断られ、白山の戦いで、ボヘミア貴族軍は僅か半日で壊滅した。
敗戦後、プロテスタント貴族の首謀者は処刑され、戦いに参加したものは財産を没収、国外追放などの迫害を受け、ボヘミアの新教徒は各地に散らばった(チェコ貴族の入れ替えが起きる)。これにより、ハプスブルク家のボヘミアに対する支配は、ますます強まっていった。チェコでは、この戦いの後から18世紀から19世紀ごろに起こった民族主義運動が勃興するまでの期間を暗黒時代 Těmno と呼ぶ。
また、この苛烈な戦後処理は他のプロテスタント諸侯・諸国の反発を招き、反乱が三十年に渡る国際戦争に発展する原因となった。