ハプスブルク家
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ハプスブルク家(英・独:Habsburg、西:Habsburgo〔アブスブルゴ〕)は、現在のスイス領内に発祥したヨーロッパのドイツ系貴族、王族、皇族。
カエサル一門の出身と名乗り、政略結婚による大規模な領土拡大に成功した。
中世から20世紀初頭まで、オーストリア大公国、神聖ローマ帝国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ベーメン(ボヘミア)王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(のちにオーストリア・ハンガリー二重帝国)などの大公・国王・皇帝を代々輩出した。ヨーロッパの王家の中でも屈指の名門と言われている。
ルドルフ1世以来オーストリアを本拠としたことから、スペイン系を含めて「オーストリア家」(ドイツ語:Haus von Österreich, スペイン語:Casa de Austria, フランス語:Maison d'Autriche, 英語:Houses of Austria)とも呼ばれる。
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[編集] 沿革
[編集] 起源
ハプスブルク家はスイス東北部のライン川上流域に出自を持つ。ハビヒツブルグ(鷹の城)古城が現存。この「ハビヒツブルグ」が訛って「ハプスブルク」になったと考えられている。1273年にハプスブルク伯ルドルフがドイツ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されて世に出た。ルドルフ1世は、1278年ボヘミア王オタカル2世をマルヒフェルトに破り、1282年にオタカル2世の所領であったオーストリアを息子に与え、ドイツの東南地方に勢力を広げる。これ以降、ハプスブルク家は徐々にスイスの領土を失ったこともあって、もっぱら軸足をオーストリア地方に移す。1308年にルドルフの子アルブレヒト1世が暗殺されてから一度ドイツ王位(帝位)を失うが、オーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてルドルフ4世がオーストリア大公を自称した。
1438年にアルブレヒト2世がドイツ王になってからはドイツ王位を完全に世襲化することに成功し、1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。この頃、婚姻関係からハプスブルク家はブルゴーニュ公国領ネーデルラントとスペイン王国とナポリ王国を継承し、皇帝カール5世のもとでヨーロッパの大領土を実現した。当時のスペインは中南米を植民地として支配していたため、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国であった。さらにカール5世の弟フェルディナントがハンガリー王、ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大した。
カトリックの擁護者としてプロテスタントと戦ったカールは、1521年に祖父マクシミリアン1世の所領を弟フェルディナントと分割したため、ハプスブルク家はスペイン系ハプスブルク家とオーストリア系ハプスブルク家に分かれた。1549年に取り交わされた協定で弟フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ帝国の帝位を世襲することになった。
[編集] スペイン系アブスブルゴ(ハプスブルク)家
スペイン系ハプスブルク家、すなわちスペイン・ハプスブルク(エスパーニャ・アブスブルゴ)家は、1580年から1640年までポルトガル王位を兼ね、海外植民地を含めて「日の沈まぬ帝国」を実現した。フェリペ2世の在位中に最盛期を迎えるが、無敵艦隊の壊滅を契機としてその勢力は下り坂に入り、八十年戦争や西仏戦争に敗れてヨーロッパの覇権を失った。
また、オーストリア・ハプスブルク家との度重なる近親結婚のためか、病弱な王が続いた。
1700年、虚弱なカルロス2世の死によって断絶した後、スペイン継承戦争を経て王位をスペイン・ブルボン家(ボルボーン家)に譲った。
[編集] オーストリア系ハプスブルク家
オーストリア系ハプスブルク家、すなわちオーストリア・ハプスブルク家(後のハプスブルク=ロートリンゲン家)は、カール5世の弟フェルディナント1世に始まる(ハプスブルク君主国)。1648年に三十年戦争終結とともに結ばれたヴェストファーレン条約によって弱体化した。しかしオスマン帝国の第二次ウィーン包囲(1683年)撃退の後、ハプスブルク家は力を取り戻し、オスマン帝国を破りハンガリーを奪還する(1699年、カルロヴィッツ条約)。スペイン継承戦争では、ハプスブルク家に支援を申し出たホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世にプロイセンにおける国王の称号を認めるなど、神聖ローマ皇帝としての権威を示す。
1740年、カール6世が男子を欠いたまま没したため、神聖ローマ皇帝位を喪失し、オーストリアは長女マリア・テレジアが相続したものの、それを不服とするプロイセンなど列強との間にオーストリア継承戦争が勃発した。オーストリアはシュレージエンを失うなど一時苦境に陥るが、イギリス(グレートブリテン王国)の援助を受け劣勢を挽回し、1748年アーヘンの和約によってオーストリア、ベーメン、ハンガリーの継承を承認される。また、マリア・テレジアの夫であるフランツ・シュテファンが1745年に神聖ローマ皇帝となったことで、ハプスブルク=ロートリンゲン家として帝位を奪還した。その後、大国化するプロイセン王国に対抗する為、フランス王国と接近(外交革命)した。フランス王太子ルイ(ルイ16世)とマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)の結婚もその一環である。しかしこの行為は、ドイツ諸侯の支持を失い、神聖ローマ皇帝としての権威を損なう結果となった。しかし大国としての地位を確保し、プロイセン、ロシアと共にポーランド分割に参加した。更にマリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世は啓蒙主義を推し進めるなど、積極的に富国強兵に努めた。
しかし1789年のフランス革命は、ハプスブルク家に衝撃を与えた。ルイ16世とマリーアントワネットの処刑は、ハプスブルク家に脅威を与え、プロイセンと共にフランスに出兵する(フランス革命戦争)。しかしフランス革命政府軍に敗れるなど失態を犯し、挙げ句の果てにナポレオン・ボナパルトの台頭を許して、やがて全ヨーロッパにナポレオン戦争の災禍に呑み込まれ行く動乱の時代に突入して行くのである。
[編集] 神聖ローマ帝国解体後
19世紀初頭に神聖ローマ帝国はフランス帝国皇帝ナポレオン1世の攻勢に屈して完全に解体し、ハプスブルク家のフランツ2世は1806年に退位した。一方でフランツは1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、オーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後はオーストリアの帝室として存続した。そして、ナポレオン1世追放後のヨーロッパにおいて、ウィーン体制護持の神聖同盟の一角として地位を保持し、ドイツ連邦内においても優位を保っていた。しかし、クリミア戦争でロシアと敵対して神聖同盟は事実上崩壊し、1859年にはサルデーニャ王国に敗北してロンバルディアを失い、1866年の普墺戦争で大敗を喫し、ドイツ連邦から追放(ドイツ統一)、と国際的地位を低下させた。
国内でも多民族国家であることから諸民族が自治を求めて立ち上がり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世も妥協し、ドイツ人とハンガリー人を指導的地位にし、帝国をオーストリア帝国とハンガリー王国とに二分して同じ君主を仰ぐ二重帝国に改編し、1867年にオーストリア・ハンガリー帝国となった。それでも以後民族問題は深刻を深めていく。1908年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合(ボスニア・ヘルツェゴビナ併合)したことから、それまでくすぶっていた大セルビア主義が高揚し、ロシアとの関係も悪化した。そして1914年、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエボでセルビア人青年に銃殺されるという「サラエボ事件」がきっかけとなって、オーストリアのセルビアへの宣戦から第一次世界大戦が始まる。長引く戦争、ロシアのレーニン政府の戦線離脱などの要因が重なり、連合国側はハプスブルク帝国を解体しないという当初の方針を踏み越え、チェコスロヴァキアに独立を約束してしまう。帝国内の民族も続々と独立し、盟邦ハンガリーさえもオーストリアとの完全分立を宣言し、ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は亡命した。中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国は1918年に崩壊した。その後、ハプスブルク一族はオーストリアへの入国を禁止された。
1961年に至って、カール1世の長男オットー・フォン・ハプスブルクはオーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄してオーストリア共和国に忠誠の宣誓を行い、オーストリアに帰国した。ハプスブルク家は現在でもオットーやその息子のカールが欧州議会の議員となるなど、政治活動を活発に行っている。
なお、単に「ハプスブルク家」と呼ばれることが圧倒的に多いが、正式な家名は現在でも「ハプスブルク=ロートリンゲン家」(Haus Habsburg-Lothringen)である。
[編集] 結婚政策
- 「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」
の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によって所領を増やしていった。
現在も、最後の皇帝カール1世の子供達は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。
[編集] 血族結婚
一方で婚姻による所領の流失にも敏感であった。そのため、叔父と姪という血族結婚を数多く重ね、一族外に所領が継承される事態を防ごうとした。その結果、17世紀ごろには誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして夭折するという事態が起こった。特にスペイン=ハプスブルク家ではカルロス2世のような虚弱体質・知的障害を併せ持った王位継承者を誕生させ、スペイン王位をブルボン家に渡すこととなった。
[編集] 幸福な結婚、多産の伝統
ほとんどは他の諸家がそうであるように政略結婚であった。しかしその割には夫婦仲が円満で子宝に恵まれたケースが多く、多産は伝統とも言える。そのため現代でもハプスブルク家に関して、陰謀などの血生臭いイメージはあまり無い。
- 10人以上の子供がいる主な夫妻
- フェルディナント1世と皇后アンナ(15人)
- マクシミリアン2世と皇后マリア(16人)
- レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーナ(10人)
- フランツ・シュテファンと皇后・女王マリア・テレジア(16人)
- レオポルト2世と皇后マリア・ルドヴィカ(16人)
- フランツ2世と皇后マリア・テレジア(12人)
[編集] 関連項目
- ハプスブルク家人物一覧・・・ハプスブルク家の系図はこちらを参照
- 神聖ローマ帝国
- ハプスブルク君主国
- オーストリア
- スペイン王国
- ポルトガル
- ネーデルラント
- オーストリア帝国
- オーストリア・ハンガリー帝国
- ハンガリー王国
- トスカーナ大公国
- 江村洋