益田兼施
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益田 兼施(ますだ かねのぶ、天保4年9月2日(1833年10月14日) - 元治元年11月11日(1864年12月9日))は、幕末期の長州藩の国家老。右衛門介(うえもんのすけ)の名で知られている。通称は幾三郎。越中。弾正。諱は兼施、親施。号は霜台。
長州藩の永代家老の家柄である益田家の益田元宣の三男として生まれる。1849年、兄が死去したため、家督を継いだ。1853年、ペリーが浦賀に来航すると、浦賀総奉行として着任する。1856年には長州藩の国家老となった。1858年、通商条約問題が起こると、益田は周布政之助らと共に朝廷の意思に従って攘夷を決行すべきと幕府に提言し、「朝廷に対しては忠節、幕府に対しては信義、祖先には孝道」という藩の三大原則を打ち出した。
1863年には上洛して孝明天皇に謁見し、真木和泉らと共に過激な尊皇攘夷に走ろうとした。しかし同年の8月18日の政変で長州をはじめとする尊皇攘夷派が京都から追放されると、益田は7人の公卿と共に長州に帰国した。だが、失った勢力を取り戻すため、禁門の変に出陣して長州軍の指揮を執る。しかし薩摩藩・会津藩連合軍の前に敗れ、益田は長州に帰国した。
そして責任を取る形で領地の阿武郡須佐に引き込んだが、同年に行なわれた第一次長州征伐で、幕府軍より益田に責任が問われて、益田は徳山藩に身柄を預けられた後、惣持院にて切腹を命じられたのである。法名は高正院大義全明。墓所は笠松山麓にある。