直心影流剣術
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直心影流剣術(じきしんかげりゅうけんじゅつ)は、日本の剣術の流儀である。正式名称は「鹿島神傳直心影流」(かじましんでんじきしんかげりゅう)。
いち早く竹刀と防具を使用した竹刀打込稽古を導入した流派として知られる。薙刀術の流派である直心影流薙刀術とは直接の関係は無い。
系譜では、松本備前守(杉本備前守とする系統もある)を初代としているが、これは伝系を記しただけであって、第7代となっている山田光徳(一風斎)が開祖である。
第7代の山田光徳から第8代の長沼国郷の時期にかけて、竹刀と防具を作成、改良し、他の剣術流派が組太刀による形稽古をしている中、いち早く竹刀打込稽古を導入した。
竹刀打込稽古導入によって直心影流剣術は盛んとなり、藤川近義に始まる藤川派、団野義高(真帆斎)に始まる団野派、男谷信友の男谷派などの多くの分派が生まれた。(これらの分派と区別するため、直心影流剣術の正統である長沼家の系統を長沼派と呼ぶ場合もある)また、全国に広まり、示現流系の流派が大勢を占める薩摩藩にも伝わっている。
これらの分派の中でも男谷派は、長沼派が上段の構えを使うことが多いのに対し、正眼の構えを中心にするなど、より竹刀での試合に適した内容に改め、また男谷信友が講武所の頭取であったこともあって、幕末に大いに栄えた。 また、長沼派も幕末には門弟2千人と号し、大いに栄えたが、長沼家の最後の伝承者である第15代の長沼称郷(可笑人)が明治初期に伝承を断念した。
男谷信友から流儀を継承した榊原鍵吉以降の男谷派については、1878年(明治11年)に野見錠次郎が継承したとする系統と、1894年(明治27年)に山田次朗吉が継承したとする系統とがある。
山田次朗吉は男谷派以外に藤川派も学んでいたため、山田が伝えた内容は榊原鍵吉以前の男谷派とも内容が異なるという説もある。明治中期に山田が伝書を焼き捨てたので、山田の系統では、現在、直心影流剣術の宗家は存在しないという立場をとっている。ただし、山田の死後、弟子であった大西英隆と大森曹玄が直心影流剣術の形を指導した。
野見錠次郎の系統は宗家のひ孫の石垣安造(東京)によって存続している。
また、龍野藩伝の直心影流剣術を伝えた富山圓の系統もある。
有名な遣い手としては男谷信友、島田虎之助、榊原鍵吉、長沼可笑人、今井信郎、得能関四郎、山田次朗吉、富山圓 等がいる。