直江信綱
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直江 信綱(なおえ のぶつな・長尾 景孝(ながお かげたか)、生年不詳- 天正9年9月9日(1581年10月6日))は、戦国時代の上杉氏家臣で、総社長尾氏当主。同氏が武田信玄に滅ぼされた後に上杉謙信に仕えて直江景綱の婿養子となってその家督を継いだ。父は長尾顕景。兄弟に長尾憲景(長尾景誠養子)・景房がいる。
父は総社長尾氏庶流の長尾定明の子であったが、宗家の長尾顕方が北条氏綱に内通したためにこれを追って当主となる。だが、主君である関東管領山内上杉家と敵対する越後国の長尾為景と通じていたために、大永7年(1527年)、長野憲業と叔父の方業に攻められて降伏、出家して景孝に家督を譲ったとされている。その後、天文14年(1545年)頃に弟の景房に家督を譲った。
ところが、武田信玄の上野国進出に伴って総社長尾氏は所領を失い、一族は越後国に逃れる。ここで景房は出家したが、景孝は老臣・直江景綱の娘と婚姻してその後継者になり、名を「与兵衛信綱」と改めた。天正5年(1577年)の景綱の死後、その後を継いだ。
御館の乱では、上杉景勝とともに春日山城に籠る一方、本拠地の与板城に残る直江氏一族を動員して周辺の上杉景虎派を討伐を進めた。景勝の勝利後、新当主となった景勝のもとで重用される。だが、恩賞を巡るトラブルなどから天正9年(1581年)春日山城内で毛利秀広によって山崎秀仙とともに殺害された。