真木保臣
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真木保臣(まき やすおみ、文化10年3月7日(1813年4月7日) - 元治元年7月21日(1864年8月22日))は、江戸時代後期の久留米水天宮祠官、久留米藩士、尊皇攘夷派の活動家である。父は真木旋臣、中村柳子。通称は和泉で、真木和泉として有名。
筑後国久留米(福岡県久留米市)の水天宮の神職の家に生まれる。神職を継ぎ、国学や和歌などを学ぶ。水戸学に傾倒し、会沢正志斎の影響を強く受ける。天保学と呼ばれる学派を作る。大久保利通(一蔵)らと薩摩藩主島津久光を擁立しての上洛を計画し、1862年(文久2)に久光が上京すると京で活動する。寺田屋事件で幽閉され、その後は長州藩に接近する。会津藩と薩摩が結託して長州藩を追放した八月十八日の政変が起こると7卿とともに長州へ逃れ、翌年に長州藩の過激派とともに禁門の変(蛤御門の変)を起こして、久坂玄瑞らとともに天王山で自害する、享年52。 作家・脚本家の光益公映はその子孫の血統にあたる。
楠木正成の崇拝者として知られ、今楠公と呼ばれた。毎年、楠木正成の命日には楠公祭を行ない、その思想と実践は、のちの湊川神社を始めとする人物顕彰神社の創建や、靖国神社を始めとする招魂社の成立に大きな影響を与えた。
[編集] 辞世の歌
- 大山の 峯の岩根に うづみけり わが年月の やまとだましひ
[編集] 関連
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