真田幸昌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
真田 幸昌(さなだ ゆきまさ、1601年8月22日(慶長6年7月24日)? - 1615年6月4日(慶長20年5月8日))は、江戸時代前期の武将である。真田信繁(真田幸村)の嫡男、母は大谷吉継の娘(竹林院)。真田大助の呼び名で有名。
1601年(又は1602年)、父・信繁が関ヶ原の戦いで流されることとなった紀伊国九度山(和歌山県九度山町)で生まれる。祖父・真田昌幸の名を逆にして幸昌と命名された。 1615年(慶長5年)、父・信繁とともに九度山を脱出して大坂城へ入り、大坂夏の陣に出陣して敵の武将を討ち取るという大功を挙げたが、その後父に大坂城の落城を見届けるように命じられる。この時、幸昌は父とともに最後まで付き従うつもりだったが、父の命令には逆らえず、やむなく大坂城に引き返したとされる。そして大坂城落城後、幼年のために周囲から脱出を勧められたが拒絶し、主君の豊臣秀頼とともに死去、享年13、あるいは16。
墓所は和歌山県九度山町の善名称院ほか。また、父の信繁同様に各地に生存伝説が残る。
また現在の大阪城の淀殿、豊臣秀頼らの自害の地に建てられた地蔵の前に、淀殿や秀頼、大野治長と並んで真田幸昌(真田大助)の名前も記されている。