眼鏡橋
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眼鏡橋(めがねばし)は「石で造られた橋」の名称の一つ。アーチが二つ連なった橋のことで、水面に映る橋と橋自体の姿が眼鏡のように見えることが由来といわれている。アーチが一つしかない石橋のことを「眼鏡橋」と呼ぶ地域も多く、広義では日本国内に存在する石造アーチ橋のことを指す。
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[編集] 概要
長崎市の中島川に架かる橋が有名で、日本三名橋に数えられている(ただし日本三名橋の定義が明確ではなく異論は多い)。 眼鏡橋は土木技術の粋として重要な構造物であるが、道幅が不足するのでコンクリートの広い橋に架け替えられたり、洪水時に川の水をせき止めて氾濫の原因になるとして全国で解体や撤去が行われ、急激に数が減っている。唯一「日本の石橋を守る会」という団体が全国の石橋(眼鏡橋・桁橋)を対象に保護活動を行っている。
[編集] 代表的な眼鏡橋
- 重要文化財(国指定)
- 諌早眼鏡橋(長崎県諌早市:1839完成)昭和33年指定重文
- 長崎眼鏡橋(長崎県長崎市:1634完成)昭和35年指定重文
- 通潤橋(熊本県上益城郡山都町:1854完成)昭和35年指定重文(単アーチ橋)
- 霊台橋(熊本県下益城郡美里町:1847完成)昭和42年指定重文(単アーチ橋)
- 早鐘眼鏡橋(福岡県大牟田市:1674完成)昭45年指定重文
- 天女橋(沖縄県那覇市:1502完成)昭和47年指定重文(単アーチ橋)
- 幸(さいわい)橋(長崎県平戸市:1702完成)昭和53年指定重文(単アーチ橋)
- 登録有形文化財
- 呉川眼鏡橋(福岡県田川郡)登録有形文化財
- 明治村天童眼鏡橋(愛知県犬山市)登録有形文化財
- 眼鏡橋(福井県坂井市)登録有形文化財
- 三見橋(三見眼鏡橋・山口県萩市)登録有形文化財
[編集] 眼鏡橋 (長崎市)
長崎市の中島川に架かる石造二連アーチ橋。現在、河口から数えて12番目の橋[1]で日本初の石造りアーチ橋といわれている。
[編集] 概要
1960年(昭和35年)に国の重要文化財に指定された。1634年(寛永11年)興福寺の2代目住職、黙子如定(もくすにょじょう)が架けた。1648年(慶安元年)の洪水で損壊するが、平戸好夢が修復、以後度重なる水害に耐えてきたが、1982年(昭和57年)の長崎大水害で半壊した。修復時に江戸期とみられる階段跡が出土したため、階段が取り付けられた形で、翌年復元され、歩行者専用橋となった。なお、流出後、下流で見つかった石材については、復元時に再利用された。 橋の長さは22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46m。
[編集] 交通
長崎電気軌道(2・4・5系)蛍茶屋支線 賑橋電停下車
[編集] 眼鏡橋 (諫早市)
諫早市高城町の諫早公園内の池に架かる石造二連アーチ橋。石橋としては日本で初めて国の重要文化財に指定された。
[編集] 概要
1839年(天保10年)、現在地から約500メートル離れた本明川に架けられた。 世話人たちは「水害でも流されない頑丈な橋」を目指し、長崎の眼鏡橋を参考に架けたといわれている。芥川賞を受賞した作家野呂邦暢は『諫早菖蒲日記』で洪水に弱い諫早のこと書いているが、眼鏡橋は世話人たちの願い通りの出来で、以後一度も流されることはなかった。
1952年(昭和32年)に起きた諫早大水害では、死者・行方不明者580人以上の犠牲者が出た。眼鏡橋は欄干の一部が損傷しただけだったが、眼鏡橋がせき止めた流木やがれきが、水の流れを変え、被害を拡大したとの指摘がなされた。水害後の復興策では川幅拡張工事に合わせ爆破解体する案も浮上したが、当時の野村儀平市長らが街のシンボルかつ文化財として保存することを強調、さまざまな働きかけで1958年(昭和33年)、日本の石橋として初めて国の重要文化財に指定された。このため、1959年(昭和34年)から1960年にかけて諫早公園への移設工事が行われ、今日も美しい姿を水面に写している。移設工事時に石工たちが参考資料として作った1/5モデルは埼玉県所沢市のユネスコ村に残っている。 橋の長さは49.25mで長崎の眼鏡橋の約2倍、幅5.5m、石の数は約2800個。
[編集] 交通
[編集] 関連リンク
[編集] 脚注
- ^ 上流の阿弥陀橋を基点と数えて10番目にあったことから江戸期には第十橋とも呼ばれていた
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